志賀潔
[Wikipedia|▼Menu]

1914年大正3年) - 北里らと共に伝染病研究所退職。

1915年(大正4年) - 創設された北里研究所(現在の北里大学の母体)に入所。

朝鮮勤務朝鮮総督府医院

1920年(大正9年)、慶應義塾大学医学部教授に就任したが、同年秋には朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校長に転じた。1924年(大正13年)に国際赤痢血清委員会に出席のためヨーロッパに渡航した際に、アルベール・カルメット(Albert Calmette)からBCGワクチンの株(Tokyo 172)を直接分与されて日本に持ち帰った[3]1926年(大正15年)、新たに創立された京城帝国大学(現在のソウル大学校)の医学部長に就任、さらに1929年(昭和4年)には同大学総長となった。

大学総長就任後の1930年、開学記念講演の「らいの歴史とらい病の研究」が、らい学会、医学部の一部の教授たちから非難されたことが、任期を満たさずに辞任したことのきっかけとなった[4]。この講演で、志賀は「らい患者には去勢を施せ、而して夫婦生活を許せ」「らい者救済の第一は去勢であって、らいの撲滅には最効果あり」という「平素の持論」を力説した[5]。藤野豊は去勢と断種の取り違えが原因だろうとしている[6]
晩年1953年

1931年(昭和6年)、内地に戻り、北里研究所顧問となった。

1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、家財を失い、仙台に疎開した。終戦後の1949年(昭和24年)からは、宮城県亘理郡坂元村磯浜の別荘(貴洋翠荘)に居住した。1957年(昭和32年)、同地で老衰により死去。仙台市により市葬が行われた。志賀の墓所は、同市青葉区北山の輪王寺にある。
親族

実父・佐藤信 -
仙台藩[7]伊達藩の下級藩士で副奉行つきの書記を務めていた[8]

養父・志賀翼[7] - 母の実家である志賀家は代々続く岩手県花巻の医家で、先々代は藩医を務めた[8]

妻・イチ(市子、1881-1944) - 山口県士族・井街清顯の四女[7]。1900年に結婚し、四男四女をもうける[9]

長男・直(1901-1944) - 台北帝国大学医学部生化学教授、東京帝国大学医学部教授[10][11]。台湾より帰航中、長崎港外で遭難死亡[8]。妻の孝江は大阪医科大学教授・小沢修造の長女[12][11]。息子の志賀逸夫の妻・賢子は、孝江の弟・小沢将邦(東京銀行副頭取)の妻・寿美子(大野良蔵長女)の連れ子で、賢子の実父が菊亭公長の長男であったことから、逸夫・賢子の娘・直子は公長の妻・章子(中山公憲庶子)の養子となった。

長女・博子(1905年生) - 宮城県出身の弁護士岡得太カ[12]。長男の岳父に斎藤斉、次男の岳父に山下汽船社長・横田愛三郎、次女の舅に梶塚隆二、三女の舅に亀井茲建

次男・亮(1907年生) - 医学博士、北海道帝国大学教授[11]。妻の徳子は画家平福百穂の二女[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef