志村喬
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同中学校卒業後の1923年(大正12年)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職した[注釈 3]ことから学資の援助が得られなくなり、夜間の専門部英文科に転じ大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。

この頃、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生えはじめ、大学の演劇研究会に参加。さらに1928年(昭和3年)には豊岡を演出家に頼み、自ら幹部としてアマチュア劇団・七月座を結成する。しかし、芝居に熱中するあまり市役所は欠勤続きでついにはクビとなった。そこで大学も中退して、本格的に役者の道を目指し、七月座のプロ化を図り巡業などをするが、大赤字となり失敗した。

大阪に戻ってJOBK(NHK大阪放送局)のラジオ劇に声優として出演したり、厚紙切りなどで食いつないでいたが、それだけではどうしても生活が出来なかった。1930年(昭和5年)に豊岡の友人で、のちに東宝撮影所長になった森田信義の世話で五月信子の近代座に入り、職業俳優として舞台に出演する。以降は日本各地をはじめ、遠く上海青島天津大連釜山にまで巡業した。

しかし、この頃から同じような芝居が続いて気持ちや生活態度はすさみ、演技も惰性になっている自分に気付いたため巡業先で一座を離れ、再び大阪に戻った。1932年(昭和7年)に剣戟の新声劇や翌年に旗揚げした新選座の舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方だった。この頃主流になり始めたトーキー映画に舞台で鍛え上げた実績を生かせるかもと思い、映画俳優の転向を決意する。本人は「これまでの映画は無声映画で俳優は美男美女と相場が決まっていて、私の顔ではやっていけるはずがない。しかし台詞入りのトーキー映画が盛んになったおかげで、自分も主役といかないまでも脇役の出番は多くなるはず」と考えたという[7]
映画俳優へ

1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作監督の第1回トーキー作品『忠次売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。

また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。

同年、松田定次に請われてマキノトーキー製作所に移籍。同社は翌1937年(昭和12年)4月に解散し、辻吉朗の口添えで同年に日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。

しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。

1942年、日活と大映との合併をきっかけに退社し、興亜映画(松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画に出演するが、しかしその後は仕事がなく、この頃に新劇を追いやられた東野英治郎小沢栄太郎殿山泰司らと生活を助け合う。当時、興亜映画は他社に俳優を貸し出しており、志村の恩人で東宝のプロデューサーの森田信義から打診されて志村も東宝の作品に出演した。1943年(昭和18年)に興亜とは契約が残っていたが、東宝に移籍。数本の戦意高揚映画にも出演している。

1945年(昭和20年)、朝鮮映画社製作の今井正監督作品『愛と誓ひ』ロケで韓国に渡る。このロケがきっかけでキムチが好物となる。この年の8月に終戦を迎えるが、実弟がこの数週間前に南方で戦病死する不幸に見舞われる。

1946年(昭和21年)、東宝オールスター映画の戦後第1作である『或る夜の殿様』にも配役されるなど、俳優としての地歩を固めていた。
戦後、黒澤映画での活躍左から志村、黒澤明三船敏郎(1953年)左から黒澤明、三船敏郎、津島恵子、志村喬(1953年5月)左から三船敏郎、志村、上原美佐(1957年)

黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演した[出典 2][注釈 4]

黒澤の最初期の作品では脇役を演じたが、1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、酔いどれ医者役を好演した。続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞する。

『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演した。癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され[1]、黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となった。1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、『生きる』と並び生涯の代表作とした。

生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じた。最後の黒澤映画は『影武者』である。1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、多くの欧米の映画人から祝辞を述べられる。

黒澤作品以外では、『ゴジラ』の山根博士役をはじめとして、主に重厚な科学者役を演じ東宝怪獣映画特撮映画に多く出演した[1][2][4]。また、天知俊一監督がモデルとされる初老のプロ野球監督を演じた『男ありて』(1955年)は黒澤作品でも特撮映画でもない志村の代表作として挙げられる。本作は映画化が危ぶまれていると聞いた志村自身が、映画化実現まで原作を守ろうとするほどの熱の入れようであった。映画化したのちもテレビドラマ化され、志村は映画とテレビでこの主役を演じた。

山田洋次監督の『男はつらいよ』の「博の父親」役でも知られ、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や熊井啓監督の『黒部の太陽』など名匠の作品でも好演した。
晩年

60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章する。しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していた。

1980年(昭和55年)に勲四等旭日小綬章を受章。1981年(昭和56年)に映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』に出演。前年の撮影現場では病気を隠して役を演じきり、何とか無事に撮影を終えた[7]

1982年(昭和57年)2月11日木曜日)午後10時41分に慢性肺気腫による肺性心で、慶應義塾大学病院で死去(享年76歳)[8]


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