志村けん
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東村山市立東村山第二中学校在学中は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの同級生の従兄とも親友だった[13][14]。ビートルズのファンで、その反骨精神に惹かれて影響(長髪と服装)を受けた[15]。このころからコメディアン以外の道はないと考えていたが、これには父親への反動もあった[8]
高校時代

両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校(現東久留米総合高校)に進学し、同高の第1期生となる。中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった[要出典]。同高では気になる女性と同じ時間に下校するため[16]サッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍した[17]

中学に続いて高校でも文化祭でコントを披露[注 7]しており、腹巻きにステテコの姿で口のまわりを黒く塗って、てんぷくトリオの様な格好した写真が残っているという。応援団長として、応援にコント55号の動きを取り入れて「なんでそうなるの?」というギャグを取り入れたりもした。校内では仲の良い友達と化学の授業用の白衣で偉そうに先生みたいな顔をして歩いたりしていた。

高校2年生の時に日本武道館でのビートルズ来日公演を観に行っている[注 8]。高校は制服だったが、ビートルズの影響で長髪にタートルネックで学校に通っていた。

ゴルフ場のキャディや運送屋のアルバイトをしていた[注 9]

中学時代の話ではあるが1962年に父は帰宅中に[19]交通事故にあった[20]。数年後後遺症を発症し[19]、この頃には、父ボケており弟子入りに関して両親の反対は無かった[21]が、大学に行かなかったことに関しては怒っていた[19]
付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り

1968年2月[22]、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。

由利徹コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、大学に行ったら気が変わると言われ断られている、これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心する[23])。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。

1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った[24]。この時の月給は4500円[23]。裸足で外出する[25]、いつも空腹でマヨネーズだけでご飯を食べる[26]、ドリフターズのメンバーが残したラーメンの汁をあてにしてライスだけ注文するといった生活を送っていた[27]
脱走

加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度辞めて[注 10][注 11]バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家で居候し、加藤からいかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と帰参を認めてくれた[19]。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
マックボンボン結成、消滅

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー[注 12]。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。動いて笑わす野球のネタや、ゴールデンハーフのネタ、高齢者向けに雲の上団五郎一座のお富さん[注 13]などを前座で披露している[28]。年齢によって内容を変え何があっても客のせいにしないことをモットーとした[29]。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠スポンサーとなる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。なお1月末に父が死去[19]。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。
メンバー見習い

志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した[注 14]。当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
正式メンバーへ

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した[19]。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入[30][31]、及びすわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと[32]、加藤の推薦により若手の志村が起用された[注 15][33][34]。当時、志村は24歳だった。
「東村山音頭」でヒット

ドリフメンバーとなり、ギターを担当するようになった。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

当時、メンバーから東村山の田舎者扱いされていた志村は意地になって稽古中に東村山音頭を歌っていたところ、それが受けて舞台で試すこととなった[35]。初出は1976年3月6日新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは後述)。

いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。


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