忍者
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第二次世界大戦前は「忍術使い」[8]といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義白土三平司馬遼太郎らの作品を通して「忍者」「忍びの者」[8]「忍び」という呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」)「透破(すっぱ、とっぱ)」「突破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」「細作(さいさく)」などがある[要出典]。なお、1600年代にイエズス会が編纂した『日葡辞書』では、「Xinobi(忍び)」と表記されている。忍者の組織を上層部の許可なく抜けた忍者を「抜け忍」と呼ぶ。
くノ一について

女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作とされる。史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる[要出典]。名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。その他陰陽道における房術である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。
忍者の歴史

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発祥と変遷

間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる地域もあるようだが、『日本書紀』等にそのような記載はない。

伊賀甲賀雑賀、さらには柳生根来等の紀伊半島は、天武天皇壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇南朝が置かれるなど、特殊な霊地が多い。

太平記』で、高師直石清水八幡宮焼き討ちに「忍び」を使ったと記されるのが文献上の初見である[1]

天正13年、羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく。これを「甲賀ゆれ」と言う[9]



大久保忠教の三河物語の記述

徳川家康桶狭間の戦い後に今川氏から独立し、三河国奪還戦争のさなか、現在の愛知県蒲郡市にある鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、と記載されている。寛文7年(1667年)の近江国甲賀武士が奉行に差し出した書状には、甲賀21家が援軍として駆け付け、夜襲・焼き討ちにより、鵜殿藤太郎の首を討ち取った武功について記載。
服部氏伝説伊賀国

昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より『上嶋家文書』(江戸時代末期の写本)が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽()役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。

伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州根来へと落ち延びたと言われる。
徳川幕藩体制下忍者と光源氏。歌川国貞画「今源氏錦絵合 須磨 十二」。(1853年)

伊賀衆甲賀衆の一部は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。この際、200名程の伊賀衆が仕官したが、1582年から1615年の間に75名が死亡しており、記録によれば危険な城攻めの前線などに投入され戦死した者が多かったという。その過酷な任務に対し、知行は10程度と薄給であった事もわかっている[10]

伊賀越以前からの家臣であった服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。

徳川家光(家光体制)時、老中松平信綱阿部忠秋堀田正盛)、御側中根正盛)は、武断政策を強硬に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱慶安の変といった大規模な事件(一揆)が発生した。大目付として諸国の様子の監視を任とした中根正盛が配下の国目付 (諜報員) を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた[11]。島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱を近江国水口宿で出迎えた甲賀之古士共(甲賀衆百余名)は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許されることとなる[注 1]。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの諜報活動(隠密活動)であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出したこともあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらることなく、戦後に仕官することは叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった。島原の乱は忍者が最後に活躍した戦いであると、言われている[12][13][14][15][要検証ノート]。

戦国時代末期の侍衆改易処分で領地を失い没落した甲賀古士は幕府に対して仕官という形での救済を訴願している。この時一緒に提出したのが『萬川集海』である[16]

御庭番」は忍者と思われがちだが、八代将軍・徳川吉宗紀州藩から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、忍者とはかかわりがない。土地に残った伊賀衆甲賀衆はそのまま百姓身分化した。「御庭番」も参照

マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、藤堂藩の無足人沢村甚三郎が調査のために船上パーティーに日本側随員として参加し、パン、タバコ、蝋燭、便箋を持ち帰った[17]


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