忌野清志郎
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清志郎の母親の最初の夫(清志郎の実の父親ではない)は結婚して間もなく戦死しており[5]、母親はのちに再婚して清志郎を生んだが[5]、清志郎が3歳の時に33歳で亡くなった。その後、清志郎は母親の姉である伯母夫婦に養子として引き取られた(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」より)。事実を打ち明けられたのは高校生の時で、実母の顔を知ったのは37歳の時である[5]。中学校時代にエレキブームに刺激を受け、ベンチャーズなどのカバーバンド「No Names」を結成、音楽活動を始める。

1966年初頭、フォークブームに刺激を受け、同級生でバンド仲間だった小林和生(のちの林小和生)、桶田賢一(のちの破廉ケンチ)と共に「The Clover」を結成する。

東京都立日野高等学校に進学。学校に馴染めず、かと言って不良でもなく、物静かな少年であと何日休んだら単位が落ちるかを計算して、サボれるだけサボッていた。「トランジスタ・ラジオ」の中に授業をサボッて屋上でタバコを吸っているという歌詞があるが、これは清志郎の実体験である(2014年5月2日放送のNHK「ラストデイズ」より)。同級生に三浦友和がいる。高校時代、清志郎はサイケデリック・ミュージックの流れでビートルズザ・バンドを聞き込んでいたが、ジョン・リー・フッカー好きの友人の影響で、ブルースに傾倒するようになる。その後、バンドの解散/再編(The Clover→「The Remainders of The Clover」→「The Remainders of The Clover Succession」)を繰り返す。

1968年、「R.C.サクセション」結成。

1970年、フォークグループRCサクセションとしてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。

「忌野」という芸名は、テレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」で悪役「鉄仮面」登場シーンにおいて、「あの忌まわしい鉄仮面」というナレーションを幼少期に「カッコイイ言葉だな」と感じ、「今わの際」という日本語と掛け合わせて「忌野」と命名した(1995年にゲスト出演した関西テレビノックは無用!」より)。なお、日本に「忌野」という苗字は実在せず、「忌」の字が含まれる苗字は「忌部(いんべ)」しか存在しない。

1972年、シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュヒットしたものの後が続かず、また事務所関係のトラブルが発生したこともあり、長期にわたってバンド活動は低迷する。

その間、清志郎は井上陽水との共作「帰れない二人」「待ちぼうけ」(共に『氷の世界』収録)、かぐや姫への作詞提供「あの唄が想い出せない」(『はじめまして』収録) などの印税で糊口を凌いだ。
バンド全盛期からソロ活動まで

1976年、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍。スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化(俗に「エレキ化」と言われる)。

1977年からメンバーの脱退・加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。また、この時期のいくつかのライブでは「栗原清志とオールスターズ」の名義を使っている。

1978年半ば頃から徐々にライブハウスでの人気が出始め、この時期からT.Rexマーク・ボランデヴィッド・ボウイなどのグラムロック一派やミック・ジャガーの影響でメイクを始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。

1979年には音楽ライターの吉見佑子が『シングル・マン』再発実行委員会を組織するなど、音楽的に評価する空気が高まる。

1980年のシングル「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」、アルバム『RHAPSODY』のヒットで、YMO坂本龍一と並び、RCサクセションの忌野清志郎はメディアの寵児として取り上げられることになった。また、同年の一橋大学の学園祭ライブでは平沢進が率いたニューウェイブテクノポップバンド「P-MODEL」と対バンを行った[6]

1982年坂本龍一と組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動。

1983年、ハードスケジュールなどがたたって肝臓を病むが、東洋医学などの文献を読み漁り家庭治療を実践し、奇跡的に完治している。

1984年、この時期の事務所の対応に不満を募らせ事務所「りぼん」から独立。

1985年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞。この時期、清志郎はライブ・エイドの日本放送版に「DANGER」で出演したり、『Merry Xmas Show』に出演したりなどした。

1987年、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』を発表。

1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』の発売中止騒動を受けて、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り。以降、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。養父が亡くなり、長男が生まれ、結婚する[5]

忌野がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM東京で放送禁止になったことを受け、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションで生放送の「ヒットスタジオR&N」(フジテレビ)に1989年10月に出演したザ・タイマーズが、その中の一曲を放送禁止用語を交えてFM東京を罵倒する歌へと番組に無断で差し替え、放送禁止用語を連発したことが話題となった[7]

1990年4月、忌野清志郎、三宅伸治坂本冬美で「SMI」と称して共演。1990年9月、アルバム『Baby a Go Go』発売し、それに付随するツアーの最終日の武道館公演(12月25日)

1991年、RCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散したため、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立。同1991年細野晴臣坂本冬美HISを結成。

1994年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立する。一方で俳優としての活動も始める。同年、映画『119』に音楽監督として参加し、翌1995年の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。

この時期、清志郎と良く似たZERRYという人物が率いるザ・タイマーズが活動を再開。彼らのレコ倫を通らない楽曲を発表させるために、インディーズレーベル「SWIM RECORDS」を設立。

1996年、テレビドラマ『ギフト』に、情報を提供する"犯罪マニア"役として出演。後に交流をもつようになる木村拓哉と共演し話題となる。

1999年、「忌野清志郎 Little Screaming Revue」のアルバム『冬の十字架』、翌年に「ラフィータフィー」のアルバム『夏の十字架』が三度発売中止騒動に巻き込まれるなどトラブルを数多く抱えるなか、デビュー30周年記念のトリビュートコンサート「RESPECT!」を日本武道館で開催し、多くのミュージシャンが清志郎(およびRCサクセション)の楽曲を演奏した。

2000年サイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(Long Slow Distance)を結成。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。

2001年、中学時代の同級生に自転車の専門誌『サイクルスポーツ』の編集長がいたことから、そのつてでプロ仕様の自転車(特注)を入手。

2004年、サイクリング中に落車して左の鎖骨を骨折という事故を起こす。

2005年、愛車「オレンジ号」の盗難(のちに発見)という災難に遭う。


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