心の哲学
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たった一つの存在論的な実在があると考えるのはあまりに機械論的で、理解し難くさえ思われるからである[9]。しかし現代の心の哲学者の大半は、こういう直感的な考えは誤解を招くと考えている。われわれは自然科学から得られた経験的な証拠に拠りながら批判能力を発揮し、こうした仮説を検証して、それが正しい基礎にもとづいたものかどうかを明らかにすべきなのである[9]

二元論を擁護する論証のうち2番目に主要なものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、場合によっては両立し難くさえあるように見える、ということである[19]。心的出来事はなんらかの主観的な特質を備えているが、物理的出来事はそうではない。従って、例えば指を火傷するとどんな感じがするかとか、青い空はどんな感じかとか、快い音楽を聴くとどう思うかなどと人に聞くことは理に適っているが、海馬側背部のグルタミン酸摂取が急増するとどんな感じがするか、などと聞くのは、哲学的意味はともかくとして、直感的には奇妙である。

心の哲学は心的出来事の主観的側面をクオリア(あるいは生の感覚)と呼ぶ[19]。痛みを感じたり、澄み渡った青空を見たりするのはなんらかの出来事であろう。こうした心的な出来事にはクオリアが関わっており、クオリアそれ自体を物理的法則には還元しがたいと思われることが、二元論の擁護される要因である[20]
相互作用二元論フランス・ハルスによって描かれたルネ・デカルトの肖像。(1648年)

相互作用二元論または単に相互作用説は二元論の一種で、心の状態、例えば信念や欲求といったもの、を物理的な状態と因果的に相互作用するものとして捉える立場である(心的世界で起こる変化の影響によって、脳内の物質が物理法則に反する動きをすることもあるという考え方である)[9]。この考えを主張したのは、デカルトである[21][3]。20世紀以後においてはこの考え方は少ないが有名な論者としてカール・ポパージョン・エックルスがいる[22]

デカルトの有名な論証は次のようにまとめられる。セスは延長を持たない思考するものとしての自分の心の明晰で判明な観念を持つ(延長をもたないとは長さ、重さ、高さなどの面で測定することができないということである)。彼はまた自分の身体について、空間的な延長を持ち、量を測ることができ、思考できない何かとしての明晰で判明な観念を持つ。このことから、心と身体は根本的に異なった性質を持つのであるから同一ではありえないということが導ける[3]

しかし、同時に、セスの心理状態(欲求、信念等)が彼の身体に対して因果的な効果を持ち、またその逆に身体が心に因果的な効果を持つことは明白である。たとえば、子供が熱せられたストーブに触れたら(物理的出来事)痛みを引き起こし(心的出来事)、彼は悲鳴をあげ(物理的出来事)、それが次に母親の恐怖と保護の感覚を引き起こす(心的出来事)、などなどといったようにである。

デカルトの議論における重要な前提は、セスが自分の心の中の「明晰で判明な」観念だと思うものは必然的に真だ、というものである。現代の哲学者の多くはこれに疑いを持つ[23][24][25]。たとえば、ジョゼフ・アガシは二十世紀初頭からなされたいくつかの科学的発見の結果、自分自身の観念には特権的にアクセスできるという考え方の根拠が崩れたと考えている。フロイトは心理学的な訓練を受けた観察者はある人の無意識の動機を本人よりもよく理解できるということを示した。デュエムはある人がどういう発見方法を使っているか科学哲学者の方が本人よりよく知っているということがありうると示し、マリノフスキは人類学者はある人の慣習や習慣を本人よりよく知っていることがありうると示した。アガシはまた、人々に実際に存在しないものを見るようにしむける現代の心理学的実験は、科学者がある人の知覚を本人よりもうまく記述できるということを示しているから、デカルトの議論を拒否する論拠になると主張する[26]
心身並行説三つの異なる二元論。左から相互作用説、随伴現象説、並行説(性質二元論は描かれていない)。Pは物理的状態(Physical state)を、Mは心的状態(Mental state)を、そして矢印は因果的な原因から結果への方向を表す。

心身並行説または単に並行説とは、心と体は存在論的に別のものとしてあるが、お互いがお互いに影響を与えることは出来ない、という考え。心的な事象は心的な事象と相互作用し、脳で起きた現象は脳での現象と相互作用するが、心と物的なものは並行して進んでおり、お互いに影響を与え合っているように見える、とする[27]。この考え方を取ったのはゴットフリート・ライプニッツである。ライプニッツはこの宇宙には唯一の種類の実体、すなわちモナドだけが存在すると考える形而上学的一元論者であり、すべてはモナドに還元できると考えていたけれども、それにもかかわらず彼は「心的なもの」と「物的なもの」の間には因果に関して重要な区別が存在すると考えていた。彼によると、心と体はお互いと調和するように神が事前に調整してくれているというのである。これは予定調和 (pre-established harmony)の原理として知られている[28]ベルナルド・クリストフ・フランケによるゴットフリート・ライプニッツの肖像(1700年ごろ)
機会原因論

機会原因論 (Occasionalism) はニコラ・ド・マルブランシュによって唱えられた説で、物理現象のもつ因果関係、そして物理的な現象から心的な現象への因果関係について、すべて実際の因果関係ではない、とする考え方。心的な存在と物質的な存在を二種類の異なる存在として認めながらも、そうした対象の変化を実際に引き起こしているのは、神であるとした。そして神の非常に規則的な作業の結果、私達はそれを単なる因果関係であると見誤ってしまうと考えた[29]
随伴現象説詳細は「随伴現象説」を参照

随伴現象説 (Epiphenomenolism) はトーマス・ヘンリー・ハクスリーによって提唱された考え方で[30]心的な現象は因果的に無力である。物理的な事象が物理的な事象を引き起こし、かつ物理的な事象は心的な現象も引き起こす。しかし心的な現象は因果的に無力な副産物(随伴現象、epiphenomena)にすぎず、物理世界に何かを引き起こすことは出来ない(心的な世界だけで起こる現象は存在せず、心的な現象には必ずそれに対応する物理的な反応がある)[27]。この考え方は近年では、フランク・ジャクソンによって最も強く支持されている[31]
性質二元論

性質二元論とは、物質がある程度組織されたなら(例えば、生きた人間の体が組織されるような仕方で組織されたなら)、心的な世界が創発する(emerge)という立場である。したがってこれは創発的物理主義の一形態である[9]。どの程度の組織化で心的世界が創発するのかについては様々であるが、心的世界が創発する事それ自体は、創発のもととなった物理的基体 (physical substrata) の物理法則に還元することや、物理的基体の存在自体で説明することはできないという立場である。随伴現象説は、素粒子など物質世界の基本的要素の段階で基本的な心的世界が創発していると考える立場であるから、随伴現象説も性質二元論に含まれる。この立場はデイヴィッド・チャーマーズによって支持されている[32]
量子脳理論詳細は「量子脳理論」を参照「意識#プロトサイエンスにおける意識」も参照

ロジャー・ペンローズスチュワート・ハメロフらによる、意識などの脳の働きを説明するもののひとつとして量子論があると推測・主張する理論である。「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している[33]

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている[33]
心身問題に対する一元論バールーフ・デ・スピノザ

一元論は、唯一の基礎的実体だけが存在すると主張する。今日、最も広く受け入れられている一元論は物理主義 (Physicalism) である[11]。物理主義的な一元論は、物理的な実体だけが唯一存在しており、我々の科学が最もよくその性質を明らかにする,と主張する[34]


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