徴兵
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特に冷戦崩壊後にEUNATOに加盟した東ヨーロッパの元社会主義国は、チェコスロバキアハンガリーのように徴兵制を廃止して志願制に切り替える国が多い。ただしこれらの国々でも、戦争などの緊急時には政府が迅速に徴兵制度を復活できるように法的には選択肢を残している場合もある。

徴兵制度の兵役義務は「一般兵役」義務と「服役待機」に分けられ、前者の一般兵役義務は全国民に入営(基地での共同生活)を義務づけるもの(例:韓国の兵役)であり、後者の服役待機は登録されるものの命令がない限り実際には入営しないもの(例:アメリカのセレクティブ・サービス・システム)や、一定期間の一般兵役後にいつでも軍に復帰できるように待機することを義務化されているもの(例:ドイツ)などがある。
徴兵制度の歴史
古代

国民に兵役を義務として課す制度は、古代にまで遡る。中国では古くから存在し、日本でも奈良時代に実施された(軍団制度)。

古代ギリシャの都市国家(ポリス)においては兵役は参政権を有する自由民男性の義務であった。一方、女性や奴隷などの非自由民には課されなかった。

ローマにおいては資産の多寡により兵役の内容が細分化され、多額の資産を有する者は騎兵、零細市民は安価で間に合う兵装、無資産市民は国家存亡の機を除き兵役の対象から外されていた。その後、マリウス軍制改革により一般市民の兵役は廃されて志願制となり、職業軍人化が進んだ。これによりローマは地中海世界を制圧する能力を得た。
中世

中世のヨーロッパでは、騎士傭兵を中心とした軍制だった。これは国王など貴族社会を中心とした制度で、国王が地方の領主・貴族の地位を保証する見返りとして軍事力を国王に提供する、あるいは財力によって軍事力を購入するという形式である。これとは別に自由民に兵役義務が課され、戦時に動員されることもあった。傭兵主力の軍隊は戦闘意欲に欠け、戦争を長引かせる原因となった。

現実には、騎士の主君に対する戦争協力(参戦要請)=従軍義務は、40 - 60日(2ヵ月)に限られていた[15]

中世の日本においても軍事力の中心は武士とその郎党であった。また僧兵も無視できない戦力を誇った。日本においては傭兵は目立つ存在ではないが、それに類する雇われ戦力(例えば海賊の類)は存在した。戦国期に入り戦乱が多発するようになると、農民などが足軽として参戦するようになる。織田信長は周囲と異なり常備軍を主力とすることで、農繁期に左右されることのない軍を作り上げ[16][17]、勢力拡大に成功した。

さらに豊臣秀吉の刀狩り令により武士と非戦闘民は明確に区別され、これは江戸時代の終わりまで続いた。
近世オスマン帝国では、一種の徴兵制度であるデヴシルメ制(強制徴用の意)によってイェニチェリなどの常備軍を整備した。

近世ではスウェーデン三十年戦争時に徴兵制を採用し、人口の少なさを補い大軍を編成した。ただし、この制度には経済的・心理的負担が大きく、部隊の質が低くなりがちになる欠点があった。そのため結果として国民の離散・国家の荒廃を招くこととなる。プロイセン王国(ドイツ)ではフリードリヒ大王が軍事的拡張主義を採り、人口の4%に当たる常備軍を作ったが、このとき大規模な傭兵を養える財政がなく、志願制では数が満たせなかったために、1733年に徴兵制(カントン制度)を敷いて農民を強制的に軍隊に組み込んだ。この軍は質が悪く士気が低いため、厳罰主義によって規律を保とうとしたが困難であった。

イギリスでは海軍もしくは陸軍に強制的に徴用される強制徴募クオータ制がしばしば行われた。対象は自国民や自国籍船だけでなく、航海中の船舶や時には他国民に対しても行われ、また植民地の居酒屋やその他の溜まり場で根こそぎ強制徴募されるような事態も発生した。
近代第一次世界大戦の時期、アメリカ合衆国で発行された徴兵対象者への身上調査カード

いわゆる近代的な国民皆兵による徴兵制はフランス革命から始まる。フランス革命以降、国家は王ではなく国民のものだという建前になったため、戦争に関しても王や騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務があるということになった。そして革命に伴う周辺諸国との戦争で兵員を確保する必要に迫られたため、ナポレオンなどによって国民軍が作られた。貧しい人々にとっては軍隊の暮らしは人々の暮らしよりも比較的ましであり、給与と生活を保障されるという側面も存在した[18]。時代が下ると徴兵は名誉であり、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。一般の間でも徴兵不適格者への侮蔑がみられるようになった[19]

近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して、志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなったことと、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができたのが主な理由である。アメリカは南北戦争の激戦によって大量の兵士が死亡し、その欠員を補うために徴兵制が敷かれた。イギリスでも第一次大戦半ばのソンムの戦いなどで多くの戦死者を出し、戦争を継続するために徴兵制を敷いた。

徴兵制度は本国の議会制定法と市民登録(日本では戸籍簿)を基礎に実施されるため、占領地には適用されないのが通例となっている。ハーグ陸戦条約では軍事占領地での住民への忠誠の宣誓を強制することを禁じており(45条)、占領地で兵員確保を行なうにしても、一定の教育を受けたことや、占領地支配に協力的な民族や部族の成員であることを条件に採用する志願兵制によることが基本であった。いわゆる「植民地」についても同様で、現地に有力な民族や政体が存在する場合、現地政体を保護国化することで間接支配する体制を採用したため、いわゆる植民地住民に直接徴兵制を課すことはなかった。一方で直轄植民地や外地の場合、本国籍住民は本国軍もしくは植民地軍からの招集命令に対して応召する義務があった。

この点、短期間であるとはいえ植民地住民に徴兵制を実施した日本は異例である。日本国民(帝国臣民)でありながら朝鮮人、台湾人は長らく兵役の義務から除外されており、日本軍への参加は志願制度に限定されていたが、兵役法改正によって1943年に朝鮮人に対して、1944年に台湾人に対して日本内地人と同様の兵役義務が課せられた。これらの植民地籍徴集兵は、戦争終結のため実際の戦闘に投入されることはなかった。ただし、日本統治下の朝鮮・台湾を欧米のそれと同様な「植民地」と解することには異論もある。(→『内地延長』)
現代MQ-9 リーパー。遠隔操作により偵察や攻撃が可能

戦争の近代化と兵器の機械化・精密化・自動化(ハイテク化)の進展は、少人数で高性能の兵器の運用が可能となったことから軍隊の省力化と定員の減少をもたらし、同時に兵器の運用技術の高度化・専門化を招いた。定員の減少によって大量の新兵募集は不必要となり、訓練にも費用がかかりすぎるなどの理由によって徴兵制度の存在意義は低下した。これを予言した軍人としてはド・ゴールが挙げられる。現代においては再び軍人の専門職化、つまり職業軍人が軍の大多数を占める職業軍人の時代が到来したと言える。西ヨーロッパ諸国では冷戦終了後から2000年代初頭にかけて次々と徴兵制を廃止し、イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ポルトガル・オランダ・ベルギーなどは志願制に移行している。旧社会主義国だったチェコやスロバキア、ハンガリー、ルーマニアもEUやNATOに加盟すると、ほぼ同時に徴兵制を廃止した。また、人海戦術の印象が強い中国では志願兵を主要として少数の徴集兵を組み合わせた志願・徴兵並立制に移行している。ロシアでは、志願制の採用が本格的に検討されている。

現在[いつ?]、兵器やコンピュータなどの技術の高度化・専門化が進んでいることにより、これらを扱う軍人の専門職化が進み、単に兵士の数や士気で戦況が決まることがなくなってきたため、徴兵制度は一部の国を除き廃止する動きが強くなってきている(徴兵制度が維持されている国家でも、良心的兵役拒否権を認めるようになってきている)。また冷戦時代に想定されていた多数の兵員を動員した総力戦が起こりにくくなったことや、民間軍事会社の発展により不完全ではあるが、必要な時だけ必要な数の人員を確保することが可能になったこと、軍用ロボットの高度化により必要な人員が減っていくと予想されていることも後押ししている。

単純な兵員数で戦況が決まるわけではないことは防衛戦においては古くから証明されているが、侵攻作戦などにおいても湾岸戦争イラク戦争などで実証されつつある[注釈 6]
徴兵制度の賛否
公平負担の観点

アフガニスタン駐留米軍およびISAFの司令官だったスタンリー・マクリスタルは、志願制度による専門職的な軍隊は全国民を代表しておらず、アメリカがふたたび長期の戦争をする場合には徴兵制度を復活させるべきであると述べた。またマクリスタルは、全国民の1パーセントに満たず、何度も召集される予備役兵が、キャリア一家の維持に問題をかかえ、その自殺率も高いと指摘した[20]。また、米陸軍大佐[注釈 7]ポール・イングリング(英語版)は、徴兵制度によって国内のあらゆる社会が戦争の重荷をひとしく感じられるようになると論じた[21]


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