徳間康快
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映画界への進出は岡田茂東映社長を足掛かりにしたものだった[4]。徳間は古くから付き合いである盟友・岡田を1971年末に訪ね[24]、「実は大映の永田さんのあとを引き継ぎたいと思っているのだが、意見を聞かせてほしい。ただしもうひとり対抗馬がいる。私はどうしても映画をやりたい。出版・映画・新聞・音楽などのあらゆるメディアでマスコミ界の三冠王、四冠王になりたいんだ」と訴え、岡田から「出来るだけ協力はする」と約束を取り付けた[4][25]。しかし徳間のいう対抗馬とは、トリオ(現・JVCケンウッド)の再建に取り組んでいた坪井一郎社長で、坪井は岡田の旧制広島高等学校の四年先輩にあたり、岡田も徳間と同じ相談を坪井から先に受けていた[4][24]。結局、岡田は徳間の熱意を買い、徳間を推することにした[24]1973年、岡田と徳間は一緒に『山口組三代目』を製作[16][26]。同年『テレビランド』を岡田と交渉し徳間書店に移し[27]、1973年5月、岡田と徳間で企画した成人向け劇画雑誌コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック』)を創刊した[28]。同誌は東映の映画監督が原作を担当し[28][29][30]、劇画として掲載した後、それを映画化するという角川春樹より先にメディアミックスを展開させたものだった[16][28]大塚英志は「岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『コミック&コミック』は『ナウシカ』と地続きだと思える」と論じている[28]1974年に徳間は大映を買収した後、日本映画製作者連盟(以下、映連)に入れてくれないかと岡田に頼んできた[16][31]。徳間は劇場を持っておらず、「我々(東映・東宝松竹)三社とは違う」と、はじめはダメだと断ったが、何度も頼みに来るので結局入会を認めた[16][31]。映連の主要メンバーは東映・岡田社長、東宝・松岡功社長、にっかつ根本悌二社長、松竹・大谷隆三社長で、これに徳間が加わり「社長会」が開かれようになった[16]。徳間は岡田と特に仲がよく名コンビを組む[32][33]。岡田は徳間を「ライバルでもあり、パートナーでもあり、友人でもありました」と述べている[16]日本映画監督協会日本俳優連合を始め、多くの団体が著作権問題で迫ると映連の会長だった岡田を徳間がフォローした[32][34]。徳間は岡田を"刎頸の友と表現している[35]

1984年の『風の谷のナウシカ』は、配給する東映にとっては当初マイナー作品の扱いで熱が入ってなかったが[36]、徳間が岡田に「もっと力を入れて欲しい」と頼み、岡田が現場に尻を叩いた[36]東京国際映画祭では岡田からの指名で徳間が第4回からゼネラル・プロデューサー(GP)を務めた[37][38][39]。徳間がGP就任以降、同映画祭は毎年開催されるようになった[37][39]。同映画祭は岡田や瀬島龍三らを中心に創設されたため[40]、徳間は瀬島とも付き合うようになった[38][41]宮澤喜一首相就任は徳間のサゼッションがあったともいわれる[38]。岡田は徳間の功績として「何といっても、アニメの宮崎駿を登用した点でしょう。
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