徳間康快
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鈴木敏夫は、徳間が銀行から金を借りるのは「ほんとうにうまかった」と述べている[43]。また、『となりのトトロ』では当初東宝が赤字を危惧して配給に消極的だったところ、徳間が「ならば東宝には『敦煌』を配給しない」と切り返し、紆余曲折の末『火垂るの墓』との同時上映という形で無事配給にこぎ着けた[44]。鈴木は、徳間が文芸作品を娯楽映画にする夢を持っていたとし、徳間としての思いはむしろ『敦煌』にあったのではないかと述べている[44]。その後、徳間はともに自らが出資する『おろしや国酔夢譚』を『紅の豚』の直前に公開し、『紅の豚』のプロデューサーだった鈴木に「勝負だ」と持ちかける子どもっぽい面もあった[44]。また、宮崎駿からは押井守を「天才少年がいます」と監督に推薦されており[45]、『天使のたまご』を製作するチャンスを与えた。
徳間は映画の製作資金を集めるのが上手く、五千万円を借りに行ったとすると、上手に相手をその気にさせ一億円を引き出す話にしてしまい、向こうが冷静になって、二の足を踏む気配を感じると「じゃあ社長の顔を立てて半分の五千万円で手を打ちましょう」と言ってその場で出資を決めてしまう、その点、彼は一流のプロデューサーでした、と岡田茂は述べている[16]。
フジテレビの名物プロデューサー・横澤彪は、労働組合争議を闘ったことから、左翼嫌いの経営者・鹿内信隆によって子会社の出版社に左遷、冷遇されていた時期があった。そのころ横澤と徳間がたまたま出会って親密になり、「売れる本はどういう本かわかるかね?」と尋ねる徳間に対し横澤が「わかりません」と答えると、徳間は「売れる本は『タイトル』にこだわり工夫をこらすことだよ。つまり客は本屋に行く→おもしろそうなタイトルの本があれば手にとる→客は全部本読む暇がないから本をペラペラめくる→そして本当に面白そうな本ならそこで買うんだよ」と助言した。その後、横澤はフジテレビ本体に復帰し「THE MANZAI」「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも」「欽ドン!良い子 悪い子 普通の子」など数々の大ヒット番組を生み出すが、徳間の助言を参考にしたのか、いずれの番組企画時にもそのタイトルにはかなりのこだわりを見せたという。
早川書房と不仲になっていたベテランSF作家たちを集めて、日本初の、日本人作家によるSF作品専門雑誌『SFアドベンチャー』を創刊させ、また日本SF大賞のスポンサーとなった。
読売新聞社経済部記者の氏家齊一郎、政治部記者の渡邉恒雄と親しく、生涯その盟友関係を保った。
賞歴
1972年、ブルガリア共和国マダルスキー・コニク勲二等国家勲章
1978年、ユーゴスラビア共和国国旗勲章金星中綬章
1978年、藍綬褒章
1982年、日本映画テレビプロデューサー協会賞 「未完の対局」製作
1983年、第2回藤本賞:「未完の対局」製作
1988年、山路ふみ子文化財団特別賞
1989年、第8回藤本賞 「敦煌」「となりのトトロ」
1989年、第12回日本アカデミー賞特別賞企画賞受賞、エランドール賞エランドール協会賞
1991年、国際交流基金特別表彰
1993年、第12回藤本賞 「おろしや国酔夢譚」「紅の豚」
1996年、毎日映画コンクール50周年記念特別功労章、勲二等瑞宝章[46]
1998年、第17回藤本賞 「もののけ姫」
1998年、第21回日本アカデミー賞会長功労賞受賞 「もののけ姫」
2001年、第43回ブルーリボン賞特別賞
2001年、エランドール賞エランドール特別賞
2001年、第55回毎日映画コンクール特別賞
2001年、第24回日本アカデミー賞会長功労賞受賞
2001年、マスコミ功労者顕彰[47]
作品
映画
金環蝕(1975年) - 製作
君よ憤怒の河を渉れ(1976年) - 製作協力
ダイナマイトどんどん(1978年) - 総指揮
黄金の犬(1979年) - 製作総指揮・総指揮
未完の対局(1982年) - 製作
雪華葬刺し(1982年) - 製作
風の谷のナウシカ(1984年) - 製作
戦国魔人ゴーショーグン 時の異邦人(1985年) - 製作
ネオ・ヒロイック・ファンタジア アリオン(1986年) - 製作
天空の城ラピュタ(1986年) - 製作
首都消失(1987年) - 製作
となりのトトロ(1988年) - 製作
敦煌(1988年) - 製作総指揮
魔女の宅急便(1989年) - 製作
遥かなる甲子園(1990年) - 製作総指揮
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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