徳間康快
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青年期は日本共産党に入党していた[2][3]1943年読売新聞社(現・読売新聞東京本社)に入社したが読売争議により1946年、2年半で同社を退社[4]。同盟通信を退いた松本重治の民報で社会部次長となるが1948年に倒産[5]

友人である中野達彦(中野正剛の息子)が社長の出版社「真善美社」の専務となるが、すぐに倒産[6]緒方竹虎副総理の紹介で、1950年、新光印刷の社長に29歳で就任[4]。新光印刷の副社長は友人・中野達彦だった[7]。新光印刷は、後に、やはり徳間が経営していた日本写真製版株式会社を吸収して、新光印刷工業株式会社となり[8]、のち徳間プレスセンターとなった。

その後、1953年、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていた日東新聞副社長になる[1]。やはり竹井が経営していた週刊誌「アサヒ芸能新聞」(アサヒ芸能新聞社から発行)が、日東新聞の不振のため1954年2月で休刊になっていた経営を引き受け、1954年3月に、株式会社「東西芸能出版社」の社長となり、「アサヒ芸能新聞」を1954年4月から再刊[9]。1956年に「アサヒ芸能新聞」の売れ行き不振のため、銀行から融資停止の連絡が届き、従来のタブロイド版からB5判の一般週刊誌「週刊アサヒ芸能」として1956年10月から発行開始[10]。「二流」を自認した庶民派の編集方針で人気雑誌とする[11][4][12]。1958年、社名を株式会社「東西芸能出版社」から株式会社「アサヒ芸能出版」に変更して、引き続き社長[13]

1961年、総合出版会社を目指して新たに徳間書店を創設、「アサヒ芸能出版」と二社体制となった[14]。1967年に徳間書店と「アサヒ芸能出版」が合併して、徳間書店として一本化した[15]

また遠藤実のミノルフォン音楽工業を引き受け、五木ひろしとの出会いからレコード業界にも名乗りを上げ、徳間音楽工業と社名変更した(のち徳間ジャパン[4][16]1973年グループ17番目の事業として東京タイムズの経営に着手[4]大映買収にも成功した(後述)。

また「現代史の記録」を目的として1972年に、現代史資料出版センターを設立、翌73年、現代史出版会と改名[17](同社には和多田進がいた)し、1984年まで出版活動を行った。

母校である逗子開成中学校・高等学校を運営する逗子開成学園の理事長や、東京都写真美術館の館長なども務めた。

2000年9月20日午後6時17分に日本医科大学付属病院で死去(78歳没)[18]
映画事業「大映」および「スタジオジブリ」も参照
教育事業「逗子開成中学校・高等学校」も参照

1980年代には、母校を運営する逗子開成学園の理事に就任した。当時の逗子開成学園は「八方尾根遭難事故」訴訟への対応を巡って混乱していたが、徳間は早期解決を主張し問題解決に尽力した[19]

学校の管理責任を巡り、八方尾根で遭難し犠牲となった生徒遺族と、逗子開成学園理事長ら学校側との間で主張が対立しており、教職員らもどちらの主張を支持するのかで意見が分かれ、学園を二分する事態となっていた[19]。問題解決に消極的な他の役員らを尻目に、徳間は解決を目指し積極的に活動する[19]。のちに遺族との間で和解が成立すると、事態の混乱を招いた理事長らは退任することになった[19]。その結果、この事態を収めた徳間が1984年2月20日に理事長に就任し、以来、死去するまで務めた[20]。また、同年10月1日には逗子開成中学校の校長に就任し、1989年1月まで務めた[20]

理事長就任後は「逗子開成を日本一の学校にするんだ」[21]と主張し、新たな教育目標の制定や積極的な施設整備など改善策を次々と打ち出し、学園の再建に尽くすとともに、逗子開成中学校の生徒募集を再開させた[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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