徳間康快
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1967年に徳間書店と「アサヒ芸能出版」が合併して、徳間書店として一本化した[15]

また遠藤実のミノルフォン音楽工業を引き受け、五木ひろしとの出会いからレコード業界にも名乗りを上げ、徳間音楽工業と社名変更した(のち徳間ジャパン[4][16]1973年グループ17番目の事業として東京タイムズの経営に着手[4]大映買収にも成功した(後述)。

また「現代史の記録」を目的として1972年に、現代史資料出版センターを設立、翌73年、現代史出版会と改名[17](同社には和多田進がいた)し、1984年まで出版活動を行った。

母校である逗子開成中学校・高等学校を運営する逗子開成学園の理事長や、東京都写真美術館の館長なども務めた。

2000年9月20日午後6時17分に日本医科大学付属病院で死去(78歳没)[18]
映画事業「大映」および「スタジオジブリ」も参照
教育事業「逗子開成中学校・高等学校」も参照

1980年代には、母校を運営する逗子開成学園の理事に就任した。当時の逗子開成学園は「八方尾根遭難事故」訴訟への対応を巡って混乱していたが、徳間は早期解決を主張し問題解決に尽力した[19]

学校の管理責任を巡り、八方尾根で遭難し犠牲となった生徒遺族と、逗子開成学園理事長ら学校側との間で主張が対立しており、教職員らもどちらの主張を支持するのかで意見が分かれ、学園を二分する事態となっていた[19]。問題解決に消極的な他の役員らを尻目に、徳間は解決を目指し積極的に活動する[19]。のちに遺族との間で和解が成立すると、事態の混乱を招いた理事長らは退任することになった[19]。その結果、この事態を収めた徳間が1984年2月20日に理事長に就任し、以来、死去するまで務めた[20]。また、同年10月1日には逗子開成中学校の校長に就任し、1989年1月まで務めた[20]

理事長就任後は「逗子開成を日本一の学校にするんだ」[21]と主張し、新たな教育目標の制定や積極的な施設整備など改善策を次々と打ち出し、学園の再建に尽くすとともに、逗子開成中学校の生徒募集を再開させた[21]
文化的事業「東京都写真美術館」も参照

美術館の見直しと活性化」[22]を公約に掲げた東京都知事石原慎太郎から要請され、2000年4月1日付で東京都写真美術館の館長に就任した[23]。ほとんど使用されていなかったホールの整備を指示し、美術館としての特色を生かした映画館としてリニューアルさせた[22]。オープン目前で徳間が死去したものの、資生堂会長福原義春が後任の館長としてオープンさせた。
エピソード

名前は、親しみを込めて「康快」を「ごうかい」と読まれることもある。

良く言えば豪快、悪く言えばワンマンな性格で知られ、かつての大映社長
永田雅一が「永田ラッパ」と言われたのに倣って「徳間ラッパ」とも言われた。大映の買収後は、映画界から退いた永田を『君よ憤怒の河を渉れ』のプロデューサーとして復帰させた。

映画界への進出は岡田茂東映社長を足掛かりにしたものだった[4]。徳間は古くから付き合いである盟友・岡田を1971年末に訪ね[24]、「実は大映の永田さんのあとを引き継ぎたいと思っているのだが、意見を聞かせてほしい。ただしもうひとり対抗馬がいる。私はどうしても映画をやりたい。出版・映画・新聞・音楽などのあらゆるメディアでマスコミ界の三冠王、四冠王になりたいんだ」と訴え、岡田から「出来るだけ協力はする」と約束を取り付けた[4][25]。しかし徳間のいう対抗馬とは、トリオ(現・JVCケンウッド)の再建に取り組んでいた坪井一郎社長で、坪井は岡田の旧制広島高等学校の四年先輩にあたり、岡田も徳間と同じ相談を坪井から先に受けていた[4][24]。結局、岡田は徳間の熱意を買い、徳間を推することにした[24]1973年、岡田と徳間は一緒に『山口組三代目』を製作[16][26]


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