徳川綱吉
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同時に従四位下左近衛権中将右馬頭に叙任し、同年正三位叙位[2]

明暦3年(1657年)、明暦の大火竹橋の自邸が焼失したため9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)閏8月、25万石を与えられ上野館林藩主となる[2]。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗ったと考えられる(館林徳川家の創設)。幕府から家臣が付属されており、誕生後から館林藩主となるまで380人近くが派遣された。寛文10年(1670年)に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。館林藩主となったが、綱吉は基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に寄ったことは寛文3年の将軍家綱に随伴した日光詣での帰路のみであった[1]。寛文5年11月19日に綱吉は将軍より鷹狩場に行く許可を得、を将軍に献上した後、石川乗政が将軍の返礼の使者として館林の狩場へ赴いているため、綱吉は鷹狩りのため館林に訪れることがあったと想定される[3]

延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、その養子になれたであろう三兄の綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去したために内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受ける。

家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局は忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。

綱吉は堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した将軍権威の向上に努めた。また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。

また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。

のちに赤穂藩浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石室鳩巣荻生徂徠雨森芳洲山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極めた。

綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている。

しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人牧野成貞柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。中野犬小屋の図。元禄9年

この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。詳しくは綱吉の#評価を参照のこと)。これらが幕府の財政を悪化させた。勘定吟味役(後の勘定奉行)・荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともあり、また元禄金元禄銀の品位低下のアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵から、かえって経済を混乱させている[4]

嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、綱吉の娘婿(娘・鶴姫の夫)である徳川綱教紀州徳川家)が候補に上がったが徳川光圀が反対したという説もある。宝永元年(1704年)、6代将軍は甥(兄・綱重の子)で甲府徳川家綱豊(のちの家宣)に決定する[注釈 1]。綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により死去[5]、享年64(満62歳没)。
死後

綱豊改め家宣が将軍になると「生類憐れみの令」はすぐに廃止された[注釈 2]。しかし殺生である鷹狩りは、徳川吉宗(綱教の弟)が8代将軍になった後まで復活することはなかった。

なお吉宗は天和の治を.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}行(おこな)った綱吉に対して敬愛の念を抱いており、吉宗の享保の改革の中にもその影響がみられるといわれている。
官歴

※日付は旧暦。

承応2年(1653年

8月12日、元服。従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。

8月17日、正三位に昇叙。


寛文元年(1661年)12月28日、参議補任。

延宝8年(1680年

5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。

8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。


宝永2年(1705年)3月5日、右大臣

宝永6年(1709年

1月10日、薨去。

1月23日、贈正一位太政大臣。


評価

綱吉の行状については価値の低い史料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。

綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流についてはベアトリス・M. ボダルト・ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書、1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。

綱吉の治世下は、近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。

深井雅海によれば、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している[6]。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)である。深井は旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価している[6]。一方で、処罰された旗本の32パーセントは小姓や近習といった行政官僚ではない役職で、その理由の多くは仔細不明の「故ありて」に該当し、政治的な意図のない恣意的な人事も相当数行われたと考えられる[6]。『徳川実紀』附録巻下には、柳沢吉保が旗本の処罰があまりに厳しいことについて、家康以来の家臣である彼らを「扇子・鼻紙などのごとく」軽々しく扱ってはならない、と諫言したとある[6]


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