徳川綱吉
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綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流についてはベアトリス・M. ボダルト・ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書、1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。

綱吉の治世下は、近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。

深井雅海によれば、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している[6]。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)である。深井は旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価している[6]。一方で、処罰された旗本の32パーセントは小姓や近習といった行政官僚ではない役職で、その理由の多くは仔細不明の「故ありて」に該当し、政治的な意図のない恣意的な人事も相当数行われたと考えられる[6]。『徳川実紀』附録巻下には、柳沢吉保が旗本の処罰があまりに厳しいことについて、家康以来の家臣である彼らを「扇子・鼻紙などのごとく」軽々しく扱ってはならない、と諫言したとある[6]富士山に大穴を開けた大噴火による宝永山の出現は綱吉や重秀の悪政の証拠の一つとされた[7][8][9]

綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州飢饉、元禄11年(1698年)の勅額大火[注釈 3]、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震富士山噴火、および宝永5年(1708年)の京都大火などである[10]。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた[10][7]

新井白石は、元禄8年(1695年)以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評した[7][11][12]。これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰であった[13][8]

また、現代においての評価はテレビドラマによるところが大きい。綱吉がドラマに登場するのは基本的に『忠臣蔵』関連か『水戸黄門』関連のドラマのどちらかであることが多いためである。

『忠臣蔵』(赤穂事件)では大抵の場合、高家吉良義央が浅野長矩へ悪態を見せる姿が描かれる。その結果、長矩にのみ切腹を命じて義央の罪を問わなかった綱吉には義央の悪態に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。このことも、綱吉の評価を実際以上に低めていると言える。

綱吉のもう一つの不運は、「水戸黄門」徳川光圀の存在である。光圀には生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、『水戸黄門』の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら『易経』を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある[14]

綱吉再評価に関する文献として、代表的で入手が容易なものとして、塚本学『徳川綱吉』(吉川弘文館、1998年)、山室恭子『黄門さまと犬公方』(文春新書、1998年 ISBN 4-16-660010-9)が挙げられる。また、2004年12月28日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『徳川綱吉 イヌと呼ばれた男』も、この再評価に連なる系列のものである。井沢元彦も『逆説の日本史』中で「戦国の気風を残した世相を、生命を大事にする太平の世へと変革した」と非常に高く評価している。
綱吉と能

家康以来、代々の将軍はを愛好してきたが、綱吉はその中でも「能狂」[15]と言われるほどの執着を示した。綱吉の能狂の特徴として、能楽研究者の表章は以下の5点を挙げる[15]
自ら能を舞い、それを人に見せることを好んだこと。


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