享保15年11月27日(1731年1月5日)に後継者がいないまま麻疹のため死去した。享年39。異母弟の松平主計頭通春(後の徳川宗春)が跡を継いだ。
官職および位階等の履歴
正徳2年12月15日(1713年1月11日)、従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官。大隅守を兼任。松平の苗字を唱える。
正徳3年11月11日(1713年12月28日)、尾張国名古屋藩主となる。11月25日(1714年1月11日)、将軍徳川家継の一字を賜り、継友と改める。12月25日(2月9日)、従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任し、右兵衛督を兼任。
正徳4年11月28日(1715年1月3日)、参議に補任。
正徳5年12月1日(1715年12月26日)、権中納言に転任。
享保15年11月27日(1731年1月5日)、薨去。法名:晃禪院殿博譽忍慈源曜、墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
家系
父:徳川綱誠
母:和泉(泉光院 林氏)
正室:安己君(光雲院 近衛家熙女)
側室:右京(岡野 園野 善良院 秋山氏)
長男:八三郎(夭折)
養女:三千君(徳川吉通女、九条幸教室)
関連作品
『八代将軍吉宗』(演 ‐ 羽賀研二)
『大奥 最終章』(演 ‐ 山口翔悟)
「鬼舐役宗八」(神坂次郎『おかしな大名たち』収録、中公文庫)
紀州(落語) - 徳川家継の後継将軍争いを題材にした地噺
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 一説に十二男、または十三男。
^ 通温は、継友が将軍位に就けなかったことを恨み、酒食に溺れて名古屋城下の屋敷に押し込められてしまう[3] 。
^ 御連枝川田窪友著に関してはすぐに旧に服させている。この明細には、何故か松平通春(徳川宗春)の記述が見られない。
^ この数字は江戸時代後期の尾張藩勘定方のメモが典拠になっているが、継友が藩主の時に尾張藩の江戸上屋敷市谷邸および四谷邸が火災で全焼しており、中屋敷麹町邸の普請も重なり、幕府より2万両の下賜があり[5]、実質は黒字ではなかった。これと同じ情報操作が第8代藩主・徳川宗勝の時代にも行われている。宗勝の時代も尾張藩江戸上屋敷市谷邸が全焼しているにもかかわらず、黒字となっている。
^ 継友に関しての評価は、本人の能力というよりも成瀬正幸・竹腰正武・石河正章などの家臣が優れていたおかげである。
出典^ 朝日重章著『鸚鵡籠中記』正徳3年10月19日条。
^ 『圓覺院様覚書二十五箇条』近松茂矩(吉通の側近)著
^ 『尾張徳川家譜』、『徳川実紀』など。
^ 『名古屋市史』
^ a b 『徳川実紀』
表
話
編
歴
尾張徳川家
尾張徳川家
(宗家)
義直1610-1650
光友1650-1693
綱誠1693-1699
吉通1699-1713
五郎太1713
継友1713-1730
宗春1730-1739
宗勝1739-1761
宗睦1761-1799
斉朝1800-1827
斉温1827-1839
斉荘1839-1845
慶臧1845-1849
慶恕1849-1858
茂徳1858-1863
義宜1864-1875
慶勝1875-1880
義礼1880-1908
義親1908-1976
義知1976-1992
義宣1992-2005
義崇2005-現在