徳川秀忠
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大坂の陣の後のことであるが、弟・義直と共に能を観劇している最中に軽度の地震が起こり、女中や小姓が我先にと脱出しようとする中「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない、下手に動かないほうが安全」と対応を指示している[25]

13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して騒ぎとなったが、秀忠は冷静に講義を聴き続けていたという逸話がある[25]

骨などから推定される体格は身長158cm程度で[26]、毛むくじゃらの手足をした体格だった[27]。死因は胃癌などの消化器がんなどだったと考えられる[28]。大腿骨の桂状性、脛骨の扁平性の存在など、四肢骨の筋附着部の性状から判断すると、意外と思われるほど筋肉の発達がよく、十分に鍛錬された体である。頭髪は半白であるが、腕の毛とすね毛は濃厚とさえ思える程に黒々として、老境を感じさせない[29]

慶長16年(1611年)、江戸城の女中だった静(浄光院)との間に秀忠の四男・幸松(保科正之)が生まれている。その後も静は正式に側室となることはなく、幸松は高遠藩保科家で養子として養育された。なお、秀忠はその後も幸松を実子として扱うことはなく、自身の遺産分けでも親族扱いはせずあくまで譜代大名の一人としている。

江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れでに処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。

小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」(『享保名物帳』の同名の刀とは別物)を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても頑として与えなかった[30]。どういうわけか、この事情は秀忠の耳にも及んでいた[30]。そこで、ある年、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った[30]。忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ない[30]。秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を奪い取ると忠利に「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と大三原を忠利に与えてしまった[30](『細川忠興公年譜』[31])。このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという[30]。ただし忠利はこのような由来がありながら後に大三原を弟の立孝に譲っている[30]

丹羽長重や小山長門守吉久とは、衆道の関係であったという[32]

茶の湯古田織部に学んで特に愛好した茶人でもあり、織部が切腹となった後も織部遺愛の道具を用いて茶会、あるいは数寄屋御成を度々行った。

2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画紙形(下絵)が公開された[33][34]。秀忠像は白描淡彩本。

系譜

正室:
小姫 - 豊臣秀吉養女、織田信雄長女

御台所(継室):浅井江(崇源院) - 豊臣秀吉養女、浅井長政三女

長女:千姫(天樹院) - 豊臣秀頼室のち本多忠刻

次女:珠姫(天徳院) - 前田利常

三女:勝姫(天崇院) - 松平忠直

四女:初姫(興安院) - 京極忠高

次男:家光

三男:忠長 - 駿河徳川家

五女:東福門院 - 後水尾天皇中宮 


家女

長男:長丸(慶長6年(1601年)2月[35]または12月3日[36] - 慶長7年(1602年)7月[37]または9月25日[36]、もしくは慶長6年(1601年)9月[38]


侍女:[注釈 7]

四男:保科正之 - 会津松平家


秀忠の養子


喜佐姫(龍昌院) - 結城秀康次女、毛利秀就

千代姫(保寿院) - 小笠原秀政娘(祖父は兄の松平信康)、細川忠利

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