徳川秀忠
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毛髪等の調査の結果、秀忠の血液型O型で、四肢骨から推定した身長は157.6cmであった[18][19]。また、かつての霊廟室内には宝塔が祀られていたが、こちらも戦災で焼失した。現在は御台所・(崇源院)と共に合祀されている。
戦績
関ヶ原の戦い

秀忠は関ヶ原の戦い初陣であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した(上田合戦)。その惨敗ぶりは「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。この時の秀忠隊は、当時の慣例により作戦対象の信濃会津に隣接する封地を持つ徳川譜代で構成していた[注釈 4]。ただし同時代史料には大規模な戦闘や大敗の記述は無く、刈田を起因とする小競り合いが家譜類に記されているのみである。

秀忠が上田城攻囲に時間をかけたこと(および大敗したとされること)について、「当初より美濃方面に向かっていた秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、それに乗せられた結果として秀忠は関ヶ原の会戦に間に合わなかった」「大局への影響の少ない上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」「武断派の榊原康政大久保忠隣が策士の本多正信を押し切って秀忠を上田城攻撃に駆り立てた」といった図式が小説等で採用されることがある[注釈 5]

しかし、『浅野家文書』によると、秀忠に同行した浅野長政に宛てて「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定であり、秀忠はそれに従っていたにすぎない。『真田家文書』では真田信幸に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、小県郡に集結するように命じている。秀忠は小山を出陣してから緩やかに行軍し、上田攻略の前線基地となる小諸城には9月2日に着陣した[20]

一方、岐阜城陥落が早かったことから、江戸の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、自身も9月1日に出陣し東海道経由で美濃の前線に向かった。しかし秀忠への使者の行程が豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、秀忠が実際に上洛命令を受けたのは8日であった(森忠政宛秀忠書状[21])。秀忠は急いで美濃に向かうが、当時の道幅の狭い隘路が続く中山道は大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、9月15日の関ヶ原開戦に間に合わなかった。

家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。本多忠勝は「秀忠軍を待つべし」と主張し、井伊直政は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。秀忠は、木曽馬籠に着いた17日に戦勝報告を受けた。
大坂の陣

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと、24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで至るという強行軍を続け、秀忠が伏見城に到着したのは11月10日、江戸から伏見まで17日間で到着するという速さであった。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。

このときのことを、『当代記』では、次のように記している。廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参。(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)

これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。『当代記』では、11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
人物
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出典検索?: "徳川秀忠" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年9月)


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