徳川秀忠
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これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており[7]、更に上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている[8][5]

この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる[注釈 1][9]。ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』天正18年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており[10]、秀忠の元服と一字拝領は同日以降であった可能性もある。なお、翌天正19年(1591年)6月に秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称しており、この時には元服を終えていたと考えられる[11]。父・家康の一字と秀吉の偏諱を用いた「秀康」は既に異母兄が名乗っているため、徳川宗家(安祥松平家)の通字として使用されていたもう一つの字である「忠」が名乗りに用いられたと考えられている[注釈 2][12]

また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている[13]。また、小姫との婚約は秀忠を秀吉の婿にするための縁組であるため信雄の改易後も婚約は継続していたが、小姫が早世したために成立しなかったとする見方もある[12]

文禄の役では榊原康政井伊直政の後見を受けつつ、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行う。文禄元年に秀吉の母大政所が死去した際には弔問のため上洛し、9月には中納言に任官して「江戸中納言」と呼ばれる。また同年には多賀谷重経の出陣拒否を理由に、秀吉は居城の下妻城破却を秀忠に命じている。文禄2年12月には大久保忠隣が秀忠付になる。

文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起きた際、京に滞在していた秀忠は伏見に一時移動している。このことについて、後世の『創業記考異』等には、秀次が秀忠を人質にしようとしたため忠隣が避難させたとある。秀次の切腹によりお拾が秀吉の後継者に定まると、9月17日にお拾の生母淀殿の妹達子が秀吉の養女として秀忠と再婚する[注釈 3]。また秀吉から、羽柴名字を与えられる[9]

その後も畿内に留まることの多い家康に代わり関東領国の支配を行い、江戸城本丸は「本城」として秀忠が住む一方で、新たに整備された西之丸は隠居曲輪として家康が帰国した際の所在地となった。また秀忠自身も度々上洛している。

慶長3年(1598年)に記された秀吉の遺言状では、家康が年をとって患いがちになった場合には秀忠が代わりに秀頼の面倒をみること、また家康は三年間は在京し、その間に領地に用がある場合は秀忠を下向させるべきと定めている。遺言の通り、秀吉死去直後に秀忠が家康の命で帰国している。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後に中山道を通り甲信地方の真田氏を平定する別働隊の指揮を命じられた。信濃国上田城攻め最中の9月8日に家康から即時上洛を命じられ行軍を急いだが、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦には間に合うはずもなかった。

9月20日に大津に到着した秀忠に対して家康は、急な行軍で軍を疲弊させたことを叱責した(遅参が理由では無い点に注意)。

関ヶ原の戦いのあと家康は三人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣を集めて尋ねた。本多正信結城秀康を推し、井伊直政本多忠勝松平忠吉を推し、大久保忠隣のみが「乱世においては武勇が肝要ではありますが天下を治めるには文徳も必要です。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかおりませぬ」とただ一人秀忠を推した。後日家康は同じ家臣を集め後継者は秀忠とすると告げたとする逸話がある。ただし上記の様にこれ以前に秀忠の後継者としての地位は既に固まっており、この逸話の信憑性は低い。
大納言・右近衛大将

慶長6年3月に秀忠は大納言に任じられ翌月に関東へ帰国する。翌7年1月には家康より関東領国の内20万石を与えられ、秀忠は自身の直臣に知行を与えている。6月には佐竹の旧領収公を付属の正信・忠隣が行った。徳川秀忠像(徳川記念財団蔵)

慶長8年(1603年)2月12日に悲願の征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を実現するため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に求め、慶長8年(1603年)4月16日に任命させた(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。それまでの武家の近衛大将任官例は武家棟梁にほぼ限られ、征夷大将軍による兼任が例とされていた。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。

関ヶ原の戦いの論功行賞を名目に、豊臣恩顧の大名を改易、西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。
征夷大将軍

慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。

3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された[14]

徳川秀忠 征夷大将軍の辞令(宣旨)「壬生家四巻之日記」權大納󠄁言源朝󠄁臣秀忠左中辨藤󠄁原朝󠄁臣總光傳宣權中納󠄁言藤󠄁原朝󠄁臣光豐宣奉 勅件人宜爲征夷大將軍者慶長十年四月十六日中務大輔兼󠄁右大史算博󠄁士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊、従三位・武家伝奏)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る1613年に英国船クローブ号ジョン・セーリスが来日した際に、英国王ジェームズ1世への返礼に秀忠が贈った甲冑のひとつ。ロンドン塔蔵。

将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。なお、将軍襲職の際に源氏長者奨学院別当は譲られなかったとする説がある[15]。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を行う。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設して、自身に直結する軍事力を強化した。慶長12年に家康が駿府城に移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方、秀忠麾下の大番や関東の譜代大名が交代で警衛に当たっており、秀忠の持城になった。同年、江戸に到着した家康は秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えている。

続いて慶長13年冬から翌年春には関東の大名・旗本の観閲を行った。慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、三河国田原で勢子大将を土井利勝井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っている。この時に供奉した旗本は美麗を極め、要した費用は計り知れないと言われた。またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、片方は死亡し片方は秀忠の命で処刑されたが、この喧嘩は他者には伝播せず日頃の法度により統率が取れていたとある。この狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、源頼朝による富士の巻狩りと同じく将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に駿府を訪れた秀忠は、家康から自身が亡くなった際には子の徳川義直徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国の途上で秀忠は涙を流したとある。


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