徳川秀忠
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なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に駿府を訪れた秀忠は、家康から自身が亡くなった際には子の徳川義直徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国の途上で秀忠は涙を流したとある。

慶長16年(1611年)、後に三ヶ条の条書とよばれることとなる大名誓紙を豊臣を除く大名から徴収した。

秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、続いて財政の譲渡を行う。慶長16年よりこれまで駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更し、翌年には諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更された。ただし美濃国・伊勢国、また近江国の内13万石は駿府へ、また駿河国・遠江国・尾張国の年貢は頼宣・義直へ収めるとされた。また慶長16年1月に秀忠麾下の老中・奉行となった安藤重信に対して、家康は慶長5年以来の勘定の監査を命じ、慶長17年8月に重信はこの監査を完了した。その後、慶長18年には大久保長安事件を始めとした代官・吏僚の横領発覚とその処罰が多数行われた。

秀忠の権力強化は家臣団の交代にも現れている。将軍就任の翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政が亡くなり、また関東総奉行の青山忠成・内藤清成は家康の狩場に領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、家康の怒りを受けた秀忠が両人を解任。同じく総奉行の本多正信は老中に横滑りをして、関東総奉行の職は消滅した。慶長19年には大久保忠隣が改易され、正信を除き旧来の家臣は江戸政権の主要な役職から去り、秀忠の近臣がその地位を占めた。
右大臣

慶長19年3月9日右大臣となり官位で秀頼に追いついた。また、位階従一位となり正二位の秀頼を超えた。方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣して連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示している。その後、勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。

家康が秀忠の要請を容れず、自身がまず上洛して情勢を確認し、問題がなければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、使者の利勝はその際は秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、これが容れられている。

10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、家康より数度徐行を求められるが応じず、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留している。その後の城攻めでは総大将として強攻を主張するも容れられず、また講和後の堀埋め立ての現場指揮を行った。慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。

豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。
親政秀忠の命で実行された京都の大殉教で、キリシタン処刑の地に建てられた石碑

家康死後、家康のブレーンとして駿府政権を支えた内、本多正純秋元泰朝松平正綱金地院崇伝天海林羅山のように江戸政権に合流する一方、親藩の付家老になったり、それまでの特権を失い一家臣や御用商人の立場に戻った者もいる。家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である酒井忠世土井利勝老中を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮する。また駿府にいた家康旗本を江戸に移し駿河町が新たに整備された。

家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸長崎に限定した。また子の国松(徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方、家康が生前に勘当した弟・松平忠輝を、改めて改易・配流に処した。6月には軍役改定を布告し、親政開始に際して改めて自身の軍権を誇示した。

元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社への介入を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。

元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。特に家康生前の時代には譜代大名畿内以東にとどまっていたが、豊後日田藩石川忠総を転封させたことを皮切りに、播磨姫路藩本多忠政龍野藩本多政朝明石藩小笠原忠真備後福山藩水野勝成を転封させ、畿内より西の西国に譜代大名を設置しはじめた。京ではキリシタンの大規模な処刑を命じており[16]方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にし[17]、火あぶりで処刑した(京都の大殉教)。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。[17]

元和6年6月18日、娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内する。9月6日、秀忠の2人の男児竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗る。

元和8年1月には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを内々に、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じた。8月には最上騒動を受けて最上義俊を、また山形城受け取りに出向いた本多正純も10月に同地で改易を言い渡された。

また福井藩松平忠直は、元和6年・8年に病を理由に参勤交代の中断や滞留を行っており、特に後者は江戸普請中の大名に越前出兵の噂が広がり、密かに出兵準備の指示を国元に命じるようになる。このような状況下で秀忠は元和9年2月に忠直へ隠居を迫り、忠直はこれに応じて隠居となり、弟の松平忠昌が家督を継承した。
大御所

元和9年(1623年)に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・家光に譲る。


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