徳川秀忠
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ロンドン塔蔵。

将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。なお、将軍襲職の際に源氏長者奨学院別当は譲られなかったとする説がある[15]。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を行う。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設して、自身に直結する軍事力を強化した。慶長12年に家康が駿府城に移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方、秀忠麾下の大番や関東の譜代大名が交代で警衛に当たっており、秀忠の持城になった。同年、江戸に到着した家康は秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えている。

続いて慶長13年冬から翌年春には関東の大名・旗本の観閲を行った。慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、三河国田原で勢子大将を土井利勝井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っている。この時に供奉した旗本は美麗を極め、要した費用は計り知れないと言われた。またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、片方は死亡し片方は秀忠の命で処刑されたが、この喧嘩は他者には伝播せず日頃の法度により統率が取れていたとある。この狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、源頼朝による富士の巻狩りと同じく将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に駿府を訪れた秀忠は、家康から自身が亡くなった際には子の徳川義直徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国の途上で秀忠は涙を流したとある。

慶長16年(1611年)、後に三ヶ条の条書とよばれることとなる大名誓紙を豊臣を除く大名から徴収した。

秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、続いて財政の譲渡を行う。慶長16年よりこれまで駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更し、翌年には諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更された。ただし美濃国・伊勢国、また近江国の内13万石は駿府へ、また駿河国・遠江国・尾張国の年貢は頼宣・義直へ収めるとされた。また慶長16年1月に秀忠麾下の老中・奉行となった安藤重信に対して、家康は慶長5年以来の勘定の監査を命じ、慶長17年8月に重信はこの監査を完了した。その後、慶長18年には大久保長安事件を始めとした代官・吏僚の横領発覚とその処罰が多数行われた。

秀忠の権力強化は家臣団の交代にも現れている。将軍就任の翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政が亡くなり、また関東総奉行の青山忠成・内藤清成は家康の狩場に領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、家康の怒りを受けた秀忠が両人を解任。同じく総奉行の本多正信は老中に横滑りをして、関東総奉行の職は消滅した。慶長19年には大久保忠隣が改易され、正信を除き旧来の家臣は江戸政権の主要な役職から去り、秀忠の近臣がその地位を占めた。
右大臣

慶長19年3月9日右大臣となり官位で秀頼に追いついた。また、位階従一位となり正二位の秀頼を超えた。方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣して連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示している。その後、勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。

家康が秀忠の要請を容れず、自身がまず上洛して情勢を確認し、問題がなければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、使者の利勝はその際は秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、これが容れられている。

10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、家康より数度徐行を求められるが応じず、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留している。その後の城攻めでは総大将として強攻を主張するも容れられず、また講和後の堀埋め立ての現場指揮を行った。慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。

豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。
親政秀忠の命で実行された京都の大殉教で、キリシタン処刑の地に建てられた石碑

家康死後、家康のブレーンとして駿府政権を支えた内、本多正純秋元泰朝松平正綱金地院崇伝天海林羅山のように江戸政権に合流する一方、親藩の付家老になったり、それまでの特権を失い一家臣や御用商人の立場に戻った者もいる。家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である酒井忠世土井利勝老中を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮する。また駿府にいた家康旗本を江戸に移し駿河町が新たに整備された。

家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸長崎に限定した。また子の国松(徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方、家康が生前に勘当した弟・松平忠輝を、改めて改易・配流に処した。6月には軍役改定を布告し、親政開始に際して改めて自身の軍権を誇示した。

元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社への介入を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。

元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。特に家康生前の時代には譜代大名畿内以東にとどまっていたが、豊後日田藩石川忠総を転封させたことを皮切りに、播磨姫路藩本多忠政龍野藩本多政朝明石藩小笠原忠真備後福山藩水野勝成を転封させ、畿内より西の西国に譜代大名を設置しはじめた。


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