徳川生物学研究所
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^ 1916(大正5)年6月15日付『読売新聞』に「義親侯の生物学研究所設立‐遠からず計画実現の決心」と題した記事が掲載された(香山 2015, pp. 31, 39)
^ 「洗足丸子街道に接し、省線五反田駅を距る西へ約20町 目黒蒲田電車線小山停車場の東南数町に在り」(徳研 1925。片仮名・旧字体・漢数字は修正した)。
^ a b c d 徳研 1925.
^ 科学朝日 (1991, p. 195)では、1918年に完成、としている。
^ 小田部 1988, p. 195同書では、「1914年9月」に武蔵小山に研究所が設立された、としている。
^ 香山 (2015, p. 31)では1918年4月に開所、としている。
^ なお、名古屋市大曽根で尾張徳川家が明倫中学校附属博物館として運営していた明倫博物館は、1917年11月に、当時建設中だった徳川生物学研究所での事業に注力することを理由の1つとして、明倫中学校と併せて愛知県に譲渡されることになり、1919年4月に譲渡された(香山 2015, pp. 30?31)。
^ 服部は旧・尾張藩の出身で、徳川の生物学科入学を世話した(科学朝日 1991, p. 194)。
^ a b c d e 科学朝日 1991, p. 196.
^ a b c 中村 & 増田 1996, p. 89.
^ 1991年現在の黎明会本部右手奥(科学朝日 1991, p. 198)
^ a b c 科学朝日 1991, p. 198.
^ a b 中村 & 増田 (1996, p. 89)、田宮博ほか(1970)からの引用として。
^ 小田部 1988, p. 209.
^ 徳川 1963, p. 146.
^ a b c 科学朝日 1991, p. 200.
^ 小田部 1988, pp. 28?29.
^ 小田部 1988, p. 29.
^ 科学朝日 1991, p. 199.
^ 科学朝日 (1991, p. 198)。(編注)同書では邦文3編、英文2編の合計5編としているが、邦文で4編が確認できる。
^ 科学朝日 1991, pp. 198?199.
^ 日本光合成学会 (2015年). “ ⇒同調培養(法)”. 日本光合成協会. 2016年9月22日閲覧。
^ 科学朝日 1991, pp. 200?201.

参考文献

香山, 里絵「 ⇒明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」(pdf)『金鯱叢書』第42巻、徳川美術館、2015年3月、27-41頁、ISSN 2188-7594、2016年10月3日閲覧。 

中村, 輝子、増田, 芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」『人間環境科学』第5巻、帝塚山大学、1996年、85-112頁、NAID 110000481506。 

科学朝日 著、科学朝日 編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年。ISBN 4022595213。 

小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192。 

徳川, 義親 著「私の履歴書‐徳川義親」、日本経済新聞社 編『私の履歴書』 文化人 16、日本経済新聞社、1984年(原著1963年12月)、85-151頁。全国書誌番号:73011083。 

徳研「徳川生物学研究所沿革」『徳川生物学研究所輯報』邦文部第1集、徳川生物学研究所、1925年、序文、NDLJP:984112。 

関連文献

田宮, 博、小倉, 安之、柴田, 和雄、高宮, 篤、長谷, 栄二、柳田, 友道「徳研盛衰記‐田宮博氏に聴く徳川生物学研究所(座談会)」『自然』第25巻第9号、中央公論社、1970年9月、24-41頁、NDLJP:2359462。 

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