徳川治貞
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和歌山藩主としての治世は14年8か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国4回、紀州在国の通算は5年3か月であった[1]
人物・逸話

名君の誉れ高い
熊本藩8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれた。

和歌山藩の財政を再建するため、自ら綿服と粗食を望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたという。このことから「倹約殿様」ともいわれる。

官歴

※日付=旧暦 墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺

1741年寛保元年)12月19日 - 伊予国西条藩主の松平頼邑の養子となり、元服し、松平頼淳と名乗る。従四位下左近衛権少将兼修理大夫に叙任。

1747年延享4年)9月27日 - 玄蕃頭に遷任。左近衛権少将如元。

1753年宝暦3年)

7月 - 家督相続し、西條藩主となる。

8月4日 - 左京大夫に転任。左近衛権少将如元。


1775年安永4年)

2月3日 - 和歌山藩主徳川重倫の養子となり、家督相続し、和歌山藩主となる。第10代将軍徳川家治偏諱を授かり治貞と名乗る。

2月22日 - 従三位に昇叙し、参議に補任し、右近衛権中将を兼任。


1776年(安永5年)2月15日 - 権中納言に転任。

1789年寛政元年)10月26日 - 薨去。享年62(満61歳没)。法名は香嚴院殿三品前黄門心齋圓通。

系譜

父:
徳川宗直(1682年 - 1757年)

母:善修院 - 外山氏(1698-1774)

正室:今出川定子(1739年 - 1773年) - 千穂君、寛耀院。権大納言今出川誠季

養子

男子:松平頼謙(1755年 - 1806年) - 徳川宗将の六男。重倫の弟。治貞と入れ替わる形で伊予国西条藩相続。

男子:徳川治宝(1771年 - 1853年) - 徳川重倫の次男。紀州藩相続。


養女

女子: 方姫(達子・恭穆夫人)(1774年 - 1794年) - 徳川重倫の三女。水戸藩主徳川治紀正室。


フィクションでの徳川治貞

平成6年(1994年)4月から10月にかけて、テレビ朝日系列で『殿さま風来坊隠れ旅』という番組が放送された。これは徳川治貞(三田村邦彦)と徳川宗睦西岡徳馬)が主役の勧善懲悪時代劇で、もちろんフィクションである。しかし、一般にはあまり知られていなかった徳川治貞の名が全国に知れわたる一助となった。
脚注^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」2011年(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版)










西条松平家5代当主 / 紀州徳川家9代当主
紀伊徳川家
(宗家)

頼宣1619-1667 | 光貞1667-1698 | 綱教1698-1705 | 頼職1705 | 吉宗1705-1716 | 宗直1716-1757 | 宗将1757-1765 | 重倫1765-1775 | 治貞1775-1789 | 治宝1789-1824 | 斉順1824-1846 | 斉彊1846-1849 | 慶福1849-1858 | 茂承1858-1906 | 頼倫1906-1925 | 頼貞1925-1954 | 頼韶1954-1958 | 1958-1965 | 宜子1965-現在

分家・支流
御連枝
(松平家)

西条松平家

頼純

頼致

頼渡

頼邑

頼淳

頼謙

頼看

頼啓

頼学

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