徳川慶喜
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^ 父の正室が生母である将軍は3代家光以来。
^ この処分について慶喜は当時、「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたが、後年に慶喜本人曰く「血気盛りの意地よりして」、謹慎中は居室の採光を極限まで抑え、起床後は麻の裃を着用して夏の暑い時も水浴びせず、月代も剃らないといった、厳しい条件を自ら課して過ごした[2]
^ 原文は「骨折るゝ故(中略)天下を取りて仕損ぜんよりは、天下を取らざる方大に勝るべし。」[3][4]
^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた[18]
^ これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[19]
^ 後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている[33]
^ 「烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(注・慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」[38]
^ 「明治三十四年の頃にや、著者栄一大磯より帰る時、ふと伊藤公(博文)と汽車に同乗せることあり、公爵余に語りて、「足下は常によく慶喜公を称讃せるが、余は心に、さはいへど、大名中の鏘々たる者くらゐならんとのみ思ひ居たるに、今にして始めて其非几なるを知れり」といひき。伊藤公は容易に人に許さざる者なるに、今此言ありければ、「そは何故ぞ」と推して問へるに、「一昨夜有栖川宮にて、西班牙国の王族を饗応せられ、慶喜公も余も其相客に招かれたるが、客散じて後、余は公に向ひて、維新の初に公が尊王の大義を重んぜられしは、如何なる動機に出で給ひしかと問ひ試みたり、公は迷惑さうに答へけらく、そは改まりての御尋ながら、余は何の見聞きたる事も候はず、唯庭訓を守りしに過ぎず、御承知の如く、水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、父なる人も同様の志にて、常々論さるるやう、我等は三家・三卿の一として、公儀を輔翼すべきはいふにも及ばざる事ながら、此後朝廷と本家との間に何事の起りて、弓矢に及ぶやうの儀あらんも計り難し、斯かる際に、我等にありては、如何なる仕儀に至らんとも、朝廷に対し奉りて弓引くことあるべくもあらず、こは義公以来の遺訓なれば、ゆめゆめ忘るること勿れ、萬一の為に諭し置くなりと教へられき、されど幼少の中には深き分別もなかりしが、齢二十に及びし時、小石川の邸に罷出でしに、父は容を改めて、今や時勢は変化常なし、此末如何に成り行くらん心ともなし、御身は丁年にも達したれば、よくよく父祖の遺訓を忘るべからずといはれき、此言常に心に銘したれば、唯それに従ひたるのみなりと申されき、如何に奥ゆかしき答ならずや、公は果して常人にあらざりけり」といへり。余は後に公に謁したり序に、此伊藤公の言を挙げて問ひ申しゝに、「成程さる事もありしよ」とて頷かせ給ひぬ。」[39]
^ 慶喜がいつ恭順の意思を持ったかについて石井孝は、慶喜が1月19日、26日、27日のフランス公使ロッシュとの会見で恭順の意思を示しておらず、2月5日の松平春嶽宛ての嘆願書の中で初めて恭順の意思が出てくることを根拠に江戸へ戻った直後の慶喜は戦争する意向だったという説を唱えている[36]
^ 「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」[60]
^ 現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。
^ また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月9日放送)でも紹介された。
^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書從三位源慶喜

  右可正二位
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日 ? 平田職修日記
^ 「◯宮廷?事 ◯拜謁 昨二日午前十一時天機竝ニ御機嫌伺ノタメ從一位コ川慶喜參?セシ處臨御 天皇 皇后兩陛下仰付ラレタリ」
^ 例えば、太田才次郎編集、明治三八年博文館発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「よしひさ」という訓読みがみられる。


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