徳川氏(徳川慶喜家)
(1902年 - 現在)
三つ葉葵
本姓称・清和源氏
家祖徳川慶喜
種別華族(公爵)
出身地江戸
主な根拠地東京府東京市小石川区小日向第六天町
東京都
茨城県
著名な人物徳川慶喜
徳川慶久
徳川慶光
徳川慶朝
山岸美喜
支流、分家徳川厚家(華族(男爵))
徳川誠家(華族(男爵))
勝家(華族(伯爵))
凡例 / Category:日本の氏族
徳川慶喜家(とくがわよしのぶけ/よしひさけ)もしくは徳川宗家別家(とくがわそうけべっけ)は、江戸幕府最後の征夷大将軍である徳川慶喜が、明治維新ののち蟄居していたのを赦され、公爵を授爵されたことによって始まる華族家である。邸宅は東京府東京市小石川区小日向第六天町(現・東京都文京区春日二丁目)に所在した。 1867年(慶応3年)に徳川慶喜は、大政奉還を行ったが鳥羽・伏見の戦いで敗れて蟄居した。1868年(慶応4年)、田安徳川家の亀之助(徳川家達)に家督を譲り、徳川宗家が新政府によって封ぜられた駿府(現・ 静岡県静岡市)で隠棲生活を送る。 1880年(明治13年)には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙された。1897年(明治30年)に東京府北豊島郡巣鴨町(現・東京都豊島区巣鴨一丁目)、1901年(明治34年)に東京市小石川区小日向第六天町(現・文京区春日二丁目)に転居し、1902年(明治35年)、徳川宗家別家を興して公爵を授けられた。1910年(明治43年)12月、慶喜の隠居に伴い7男慶久が襲爵し、2代当主となる。1922年(大正11年)1月、慶久の急逝に伴い慶光が10歳で襲爵し、3代当主となる。 1993年(平成5年)2月、慶光死去に伴い、慶朝が4代当主となる。2017年(平成26年)9月、慶朝死去に伴い、山岸美喜が5代当主となる。 慶喜は子沢山で、側室・新村信と中根幸の間に10男11女を儲けた。このうち四男の厚が徳川宗家分家として、九男の誠が徳川宗家別家分家として、それぞれ男爵家を興したほか、池田侯爵家(旧・鳥取藩主家)に5男の博、勝伯爵家(勝海舟の家)に十男の精をそれぞれ養嗣子に出している。徳川慶喜家は皇室とも縁が深く、慶喜生母の吉子は有栖川宮織仁親王第12王女。慶喜九女の経子は伏見宮博恭王妃。2代当主慶久夫人の實枝子は有栖川宮威仁親王第2王女。慶久次女の喜久子は高松宮宣仁親王妃。 4代慶朝、2代慶光夫人和子(子爵松平保男4女)と5代山岸美喜、榊原喜佐子(2代慶久の三女、子爵榊原政春夫人)、井手久美子(2代慶久の四女、侯爵松平康昌長男康愛夫人のち医師井手次郎夫人)が、それぞれ徳川慶喜家に関する書籍を上梓している。 慶朝には慶敬・敦子・慶弘の2男1女がいるが、妻・貴子との離婚後、3子とも従母離籍し徳川家から離れた。慶朝は2017年(平成29年)9月に病没し、徳川慶喜家の嫡流は絶えたが、直系子孫は継続している[1]。慶朝の遺言により、葬儀を取り仕切った慶喜の玄孫(やしゃご)・山岸美喜が5代当主となった。美喜は当初、当主を称することを避けていたが、2023年1月に自身が5代当主であること、また徳川慶喜家の当代限りでの絶家を表明した[2]。
概要
歴代当主
戦前
初代(1902年 - 1910年) 徳川慶喜
2代(1910年 - 1922年) 徳川慶久
3代(1922年 - 1993年) 徳川慶光
戦後
4代(1993年 - 2017年) 徳川慶朝
5代(2017年 - ) 山岸美喜(後継者はなく絶家予定)
その他
1933年(昭和8年)7月7日、名古屋地方裁判所にて文書偽造行使詐欺で11万円を搾取した罪により徳川喜好(春日喜好)に懲役2年の判決が出された。