徳川恒孝
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長男:徳川家広 - 翻訳家作家徳川記念財団理事長ベトナム人女性と結婚。徳川宗家第19代当主。

次女:徳川典子 - 徳川記念財団学芸員[4]

大伯母:梨本宮伊都子妃 - 松平信子の姉

伯父:徳川家英 - 家正の早世した嫡男、義兄に当たる。

叔母:秩父宮妃勢津子 - 一郎の妹。

従弟:上杉邦憲 - 宇宙工学者米沢上杉家第17代当主、母方の叔母の子。

はとこ:

黒田長久 - 黒田家第15代当主、鳥類学者日本鳥学会会長、山階鳥類研究所所長、日本野鳥の会会長、黒田奨学会総裁。以下その人物の祖父母が兄弟で、共に島津忠義の曽孫でその子供達の孫である。

松平直壽 - 松江松平家当主、同上。

筑波常治 - 筑波家当主、元早稲田大学教授、同上。

筑波常遍 - 真言宗山階派大本山勧修寺第45代長吏、常治の弟、同上。

徳川宗英 - 田安徳川家第11代当主、作家、同上。

徳川宗賢 - 言語学者国語学者大阪大学教授、学習院大学教授、国語学会代表理事、第21期国語審議会委員。宗英の弟、故人。同上

久松定成 - 久松家先代当主、元愛媛大学教授、靖国神社崇敬奉賛会元会長、「ヒサマツサイカブトムシ」の発見者。故人。同上。

明仁 - 第125代天皇、同上。

常陸宮正仁親王 - 常陸宮家当主、財団法人日本鳥類保護連盟総裁、同上。

久邇邦昭 - 久邇家当主、神社本庁統理、同上。

島津修久 - 島津家第32代当主、島津興業会長、鶴嶺神社宮司照国神社宮司、平松神社宮司、鹿児島経済同友会代表幹事。同上。

島津禎久 - 旧佐土原藩島津家出身、カメラマン山階鳥類研究所理事長・島津久永の長男、同上。

徳川宜子 - 紀州徳川家第19代当主、建築家、同上。

徳川慶朝 - 徳川慶喜家当主、カメラマン、共に松平容保の曽孫、故人。


義従兄:徳川義宣 - 尾張徳川家第21代当主、美術史家。義宣の妻・三千子が恒孝と従姉、同上。

ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恆雄は貴族院に代わって成立した参議院の初代議長である。また、血統上は家康の十一男・徳川頼房の男系子孫である。
逸話

祖父・家正から養子に望まれたとき、恒孝は父・一郎に「なぜボクだけがよそへ行かなければいけないのですか」と聞いた。すると、一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えた。当時は戦中から戦後にかけての窮乏期だったため、恒孝を家正が説得した最後の決め手は「おいしいものを沢山食べさせてあげる」だったという
[5]。しかし、本人の講演会での談によれば、実際には養父である家正らは非常に粗食家であったため思ったようにご飯を食べさせてもらえなかった。幼少の恒孝は空腹に耐えかね、実家の松平家にご飯を食べに帰り、その際に状況を察していた母・豊子は恒孝の分も食事を用意していたそうである。

徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。歴代当主の命日には墓所のある上野寛永寺増上寺に参る他、家康の命日の4月17日には久能山東照宮、月遅れの5月17日日光東照宮でそれぞれ祭事があり、それぞれ束帯姿で参列する。歴代将軍側室など徳川宗家ゆかりの人々の墓は年末年始やにまとめて参っているが、合計すると月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、会社勤め時代はその都度有給休暇を使い、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた[6]

越前松平家当主の松平宗紀とは学習院の同級生である。恒孝は会津松平家から徳川宗家へ、宗紀は田安徳川家から松平家へ養子に入ったため苗字が入れ違いになっており、「松平が松平に、徳川が徳川に行ったらいいじゃないか」と同級生たちにからかわれたという[7]

日本郵船に勤務していた際、加賀前田家18代当主の前田利祐(のち宮内庁委嘱掌典)と、一時期本社の同じ部署で勤務していたことがあり、恒孝は「随分昔ですが、人を怒鳴ることで有名な副部長がいまして、『前田!徳川!ちょっと来い!』などと呼びつけたのは太閤様以来おれだけだ、といっていたとのことです」とこの時のことを回想している[8]


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