ちなみに、恒孝の母方の祖父で系譜上の養父に当たる家正は最後の貴族院議長であり、父方の祖父に当たる松平恆雄は貴族院に代わって成立した参議院の初代議長である。また、血統上は家康の十一男・徳川頼房の男系子孫である。
逸話
祖父・家正から養子に望まれたとき、恒孝は父・一郎に「なぜボクだけがよそへ行かなければいけないのですか」と聞いた。すると、一郎は「お前は大飯を食うからだ」と答えた。当時は戦中から戦後にかけての窮乏期だったため、恒孝を家正が説得した最後の決め手は「おいしいものを沢山食べさせてあげる」だったという[5]。しかし、本人の講演会での談によれば、実際には養父である家正らは非常に粗食家であったため思ったようにご飯を食べさせてもらえなかった。幼少の恒孝は空腹に耐えかね、実家の松平家にご飯を食べに帰り、その際に状況を察していた母・豊子は恒孝の分も食事を用意していたそうである。
徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。歴代当主の命日には墓所のある上野寛永寺や芝増上寺に参る他、家康の命日の4月17日には久能山東照宮、月遅れの5月17日に日光東照宮でそれぞれ祭事があり、それぞれ束帯姿で参列する。歴代将軍の側室など徳川宗家ゆかりの人々の墓は年末年始や盆にまとめて参っているが、合計すると月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、会社勤め時代はその都度有給休暇を使い、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた[6]。
越前松平家当主の松平宗紀とは学習院の同級生である。恒孝は会津松平家から徳川宗家へ、宗紀は田安徳川家から松平家へ養子に入ったため苗字が入れ違いになっており、「松平が松平に、徳川が徳川に行ったらいいじゃないか」と同級生たちにからかわれたという[7]。
日本郵船に勤務していた際、加賀前田家18代当主の前田利祐(のち宮内庁委嘱掌典)と、一時期本社の同じ部署で勤務していたことがあり、恒孝は「随分昔ですが、人を怒鳴ることで有名な副部長がいまして、『前田!徳川!ちょっと来い!』などと呼びつけたのは太閤様以来おれだけだ、といっていたとのことです」とこの時のことを回想している[8]。