延宝7年5月6日、当時館林藩主だった綱吉の嫡男として江戸の神田御殿で生まれた。母は堀田将監(小谷正元)
女のお伝の方(瑞春院)。同母姉に紀州藩主徳川綱教室となった鶴姫がいる。「徳松」はかつて綱吉も名乗っていた幼名である。延宝8年(1680年)5月に綱吉が長兄の4代将軍家綱の継嗣となったため、数え二つ(満11か月)で館林徳川家の家督を継いだ。同年11月27日に綱吉と共に神田御殿から江戸城西御丸に移ると、松平忠冬・堀田正英・内藤重頼・黒田直邦・岡田俊陳・稲垣重定・本庄宗資・堀田正休・川勝隆尚らの旗本や御家人が傅役として徳松に仕え、老中の板倉重種も徳松付の西丸老中を兼ねてこれを支えた。
しかし天和3年(1683年)に数え五つ(満4歳)で夭折した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。墓所は東京都港区の増上寺にある。
出典^ 『徳川徳松』 - コトバンク
参考文献
塚本学 『徳川綱吉』吉川弘文館(人物叢書)、1998年、ISBN 4-642-05210-0
関連項目
七五三 - 天和元年11月15日に徳松の健康を願って行われた催しがその嚆矢という。
表
話
編
歴
館林徳川家館林藩2代藩主 (1680年 - 1683年)
榊原家
榊原康政1590-1606
榊原康勝1606-1615
榊原忠次1615-1643
陸奥白河藩に転封
大給松平家
松平乗寿1644-1654
松平乗久1654-1661
下総佐倉藩に転封
館林徳川家
徳川綱吉1661-1680
徳川徳松1680-1683
一旦、廃藩
1683年から1707年まで公儀御料
越智松平家
松平清武1707-1724
松平武雅1724-1728
松平武元1728
陸奥棚倉藩に転封
太田家
太田資晴1728-1734
摂津周辺に転封。一旦、廃藩
1734年から1740年まで公儀御料
太田家
太田資俊1740-1746
遠江掛川藩に転封
越智松平家
松平武元1746-1779
松平武寛1779-1784
松平斉厚1784-1836
石見浜田藩に転封
井上家
井上正春1836-1845
遠江浜松藩に転封
秋元家
秋元志朝1845-1864
秋元礼朝1864-1871
廃藩置県