徳川家達
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1866年慶応2年)に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥天璋院御年寄瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が第15代将軍に就任した[4]
家督相続と静岡藩主・知藩事

大政奉還王政復古江戸開城を経て、1868年(慶応4年)閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の元津山藩主・松平斉民らが後見役を命ぜられた[5][6]。当時、数え年で6歳だった[7]

5月18日に亀之助を改め、家達と名乗ることになった[6]5月24日駿府藩主として70万石を与えられる。その領地は当初駿河国一円と遠江国陸奥国の一部であったが、9月4日に陸奥国に代えて三河国の一部に変更された[6][8]

8月9日に中老・大久保一翁大目付加藤弘蔵など約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ向かった[9]。6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀[注釈 2]を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物[注釈 3]を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」[10]。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている[11]

江戸にいた旗本御家人などの旧幕臣は、武器弾薬や金などを取って脱走した反政府派を除くと大きく分けて3つの道があった。政府に仕えて朝臣に転じる道、家達に従って駿府へ移住して駿府(静岡)藩士になる道、藩に暇乞いして農工商に従事する道である。内訳は朝臣に転じたのが5,000戸ほど、駿府へ移住したのが12,000戸ほど、暇乞いしたのが3,600戸ほどだった(暇乞い組の中は生活の困難や当初の計画通りに行かなくなったことなどで後に藩に帰参した者もある)[12]。500石以上の高禄旗本の大半が朝臣に転じたのに対し、小身の旧幕臣に駿府移住組が多かった。70万石の駿府藩でこれほどの規模の家臣団を家禄制のまま召し抱えるのは困難だったので、家禄制は廃止し、今後は役職者には役金、不勤者には扶持米を支給することを藩士たちに申し渡した。大半を占める不勤藩士(不勤だが「勤番組」という名称で組織された)には農工商などの職業に就くことを許可した[13]。そのため扶持米の少ない不勤藩士は農工商業への従事、内職などして生計を立てた[13]

家達が駿府に到着したのは10月5日だったが、11月には旧江戸城の東京城(皇居)に戻り、明治天皇に拝謁した[14]函館五稜郭に立てこもった榎本武揚一党の征討を命ぜられたが、駿府へ移住したばかりの家臣たちに函館遠征は困難であったため、後見役の松平斉民が家達の出兵免除の請願書を提出し、田安家の当主に戻っていた父・慶頼と一橋家当主・徳川茂栄が連名で家達の代わりに出陣することを願い出て許され、家達の出陣は免除された[15]11月18日従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する[14]12月5日に再び江戸を発って駿府へ向かった[16]

1869年(明治2年)4月6日に再び東京に到着し、13日に旧榊原家邸を藩邸として与えられた。7月14日に東京を発って駿府への帰路につく[15]。この留守中の6月に駿府は静岡と改称[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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