同年5月25日、正一位太政大臣を追贈された[1]。法名は有章院殿贈正一位大相国公[1]。
死因は風邪の悪化による急性肺炎とされる[6]。 家継の死により、家宣の血筋は途絶えた[注釈 4]。当初は、尾張藩主で家継からも「継」の字の授与を受けていた徳川継友が間部詮房や新井白石らに支持されており第8代将軍の最有力候補であったが、結果として大奥(家宣の正室・天英院や家継生母・月光院など)や、反詮房・反新井の幕臣達の支持も得た紀州藩主の徳川吉宗(就任当時33歳)が第8代将軍に迎えられた。吉宗は家継からみてはとこ大おじ(祖父・綱重とはとこの関係)にあたる。
死後の動向
人物・逸話
「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」とある(『徳川実紀』)。
家継の埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際にこれに立ち会い、被葬者の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか家継の遺骨は存在せず、家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった。家継の血液型はA型であった。
偏諱を受けた人物
徳川継友(尾張徳川家)
黒田継高
池田継政
島津継豊[7]
関連作品
テレビドラマ
大奥(1983年、演:小野隆)
八代将軍吉宗(1995年、演:中村梅枝)
忠臣蔵の恋?四十八人目の忠臣?(2017年、NHK)
映画
大奥(2006年、演:澁谷武尊)
漫画
よしながふみ『大奥』(白泉社)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 過去にさかのぼれば鎌倉時代の惟康王(後の惟康親王)が数え3歳で征夷大将軍に任ぜられており、家継はそれに次ぐものである。
^ 家継の幼名・鍋松から、間部(間鍋)詮房が父という説があるが、俗説で信憑性は低い。
^ 家継の死により、徳川将軍家における第2代将軍・秀忠以来の血統は断絶となった。ただし、秀忠の血統は家継が死んだ時点では会津松平家と越智松平家でそれぞれ続いており、あくまで徳川将軍家の中で断絶となったのに注意を要する。
^ この時点では第3代将軍・徳川家光の男系子孫は残っており、家継の叔父にあたる松平清武とその子(家継から見れば従兄)清方が享保9年(1724年)に死去して断絶した。女系子孫では家光の唯一の娘千代姫の血筋が現在まで存続している。
出典^ a b c d e f g h i j k l 続群書類従完成会 1970, p. 56.
^ 続群書類従完成会 1970, p. 54.
^ 一条兼香「兼香公記」正徳2年12月14日条
^ 山口、2017年、P211-213
^ 山口、2017年、P211・213-214