徳川家継
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同年4月2日、家継は将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した[4]。また、正二位内大臣右近衛大将となり、淳和奨学両院別当源氏長者となった[1]
側近政治

家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。幼少である将軍の身の回りの世話をするため、元来大奥に限定された女性の行動圏が、この頃は中奥御座之間周辺まで拡大した。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。

家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞分けが良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはいかなくなっていった。

正徳6年(1716年)1月、霊元天皇の3歳の皇女八十宮縁組した[1]

家宣の存命中から天英院(近衛熙子)の弟・近衛家煕(摂政・関白・太政大臣を歴任)の娘である尚子との婚約を内々に決めていたが、家継よりも7歳も年上の尚子との年齢差を気にかけた天英院と家煕は、尚子を中御門天皇に入内させて女御にすることで事実上の婚約破棄を行った。尚子に代わる御台所の候補を求めた天英院と月光院は幼少の将軍の立場を強化するため、「家継」の名付け親でもある法皇の皇女を迎えようと考えて幕府を通じて交渉した。法皇もこの要請を受け入れて、正式に婚約をすることになったが、思わぬ形で皇女降嫁の話は立ち消えになってしまうことになった[5]
夭折

正徳6年(1716年)4月30日、死去した[1][注釈 3]。8歳[1](満6歳没)。増上寺に葬られた[1]

同年5月25日、正一位太政大臣追贈された[1]法名は有章院殿贈正一位大相国公[1]

死因は風邪の悪化による急性肺炎とされる[6]
死後の動向

家継の死により、家宣の血筋は途絶えた[注釈 4]。当初は、尾張藩主で家継からも「継」の字の授与を受けていた徳川継友が間部詮房や新井白石らに支持されており第8代将軍の最有力候補であったが、結果として大奥(家宣の正室・天英院や家継生母・月光院など)や、反詮房・反新井の幕臣達の支持も得た紀州藩主の徳川吉宗(就任当時33歳)が第8代将軍に迎えられた。吉宗は家継からみてはとこ大おじ(祖父・綱重はとこの関係)にあたる。
人物・逸話

「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」とある(『
徳川実紀』)。

家継の埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際にこれに立ち会い、被葬者の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか家継の遺骨は存在せず、家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった。家継の血液型A型であった。

偏諱を受けた人物

徳川継友(尾張徳川家)

黒田継高

池田継政

島津継豊[7]

関連作品
テレビドラマ


大奥(1983年、演:小野隆

八代将軍吉宗(1995年、演:中村梅枝

忠臣蔵の恋?四十八人目の忠臣?(2017年、NHK)

映画


大奥(2006年、演:澁谷武尊

漫画


よしながふみ大奥』(白泉社

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 過去にさかのぼれば鎌倉時代の惟康王(後の惟康親王)が数え3歳で征夷大将軍に任ぜられており、家継はそれに次ぐものである。
^ 家継の幼名・鍋松から、間部(間鍋)詮房が父という説があるが、俗説で信憑性は低い。
^ 家継の死により、徳川将軍家における第2代将軍・秀忠以来の血統は断絶となった。


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