徳川将軍家の慣例では、将軍家の世子は父である将軍から名字書出を受けて元服して、朝廷から大納言に任じられた後に将軍を継ぐことになっていた。ところが、鍋松が元服を済ませる前に父である家宣が亡くなってしまった。元服の際に名字書出を行って諱を定めるのは上位者の行為であり、徳川将軍家の世子である鍋松に対して諱を与えられる者がいなくなってしまった。そのため、幕府はその役目を担う人物を朝廷に求めた。そこで当時院政を行っていた霊元上皇が名字書出を行うことになった[3](当時の中御門天皇も13歳と幼かった)。幕府の要請を受けた上皇は12月12日に京都所司代・松平信庸に対して「家継」の名字書出を記した宸翰を授けた。宸翰と位記は21日に江戸に到着し、23日に江戸城の御座間に安置された。家継は徳川将軍唯一の朝廷(院)から諱を与えられた将軍となった。
正徳2年(1712年)12月25日、従二位権大納言に叙任、家継と称した[1]。
正徳3年(1713年)3月25日、江戸城に勅使と院使を迎え、大老・井伊直該を烏帽子親として元服の儀式を行った。この際に霊元上皇は烏帽子を、中御門天皇は冠を家継に贈っている。同年4月2日、家継は将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した[4]。また、正二位内大臣・右近衛大将となり、淳和奨学両院別当・源氏長者となった[1]。 家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。幼少である将軍の身の回りの世話をするため、元来大奥に限定された女性の行動圏が、この頃は中奥御座之間周辺まで拡大した。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。 家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞分けが良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはいかなくなっていった。 正徳6年(1716年)1月、霊元天皇の3歳の皇女・八十宮と縁組した[1]。 家宣の存命中から天英院(近衛熙子)の弟・近衛家煕(摂政・関白・太政大臣を歴任)の娘である尚子との婚約を内々に決めていたが、家継よりも7歳も年上の尚子との年齢差を気にかけた天英院と家煕は、尚子を中御門天皇に入内させて女御にすることで事実上の婚約破棄を行った。尚子に代わる御台所の候補を求めた天英院と月光院は幼少の将軍の立場を強化するため、「家継」の名付け親でもある法皇の皇女を迎えようと考えて幕府を通じて交渉した。法皇もこの要請を受け入れて、正式に婚約をすることになったが、思わぬ形で皇女降嫁の話は立ち消えになってしまうことになった[5]。 正徳6年(1716年)4月30日、死去した[1][注釈 3]。8歳[1](満6歳没)。増上寺に葬られた[1]。 同年5月25日、正一位太政大臣を追贈された[1]。法名は有章院殿贈正一位大相国公[1]。 死因は風邪の悪化による急性肺炎とされる[6]。 家継の死により、家宣の血筋は途絶えた[注釈 4]。当初は、尾張藩主で家継からも「継」の字の授与を受けていた徳川継友が間部詮房や新井白石らに支持されており第8代将軍の最有力候補であったが、結果として大奥(家宣の正室・天英院や家継生母・月光院など)や、反詮房・反新井の幕臣達の支持も得た紀州藩主の徳川吉宗(就任当時33歳)が第8代将軍に迎えられた。吉宗は家継からみてはとこ大おじ(祖父・綱重とはとこの関係)にあたる。
側近政治
夭折
死後の動向
人物・逸話
「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」とある(『徳川実紀』)。
家継の埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際にこれに立ち会い、被葬者の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか家継の遺骨は存在せず、家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみだった。家継の血液型はA型であった。
偏諱を受けた人物
徳川継友(尾張徳川家)
黒田継高
池田継政
島津継豊[7]
関連作品
テレビドラマ
大奥(1983年、演:小野隆)
八代将軍吉宗(1995年、演:中村梅枝)
忠臣蔵の恋?四十八人目の忠臣?(2017年、NHK)
映画
大奥(2006年、演:澁谷武尊)
漫画
よしながふみ『大奥』(白泉社)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 過去にさかのぼれば鎌倉時代の惟康王(後の惟康親王)が数え3歳で征夷大将軍に任ぜられており、家継はそれに次ぐものである。
^ 家継の幼名・鍋松から、間部(間鍋)詮房が父という説があるが、俗説で信憑性は低い。
^ 家継の死により、徳川将軍家における第2代将軍・秀忠以来の血統は断絶となった。ただし、秀忠の血統は家継が死んだ時点では会津松平家と越智松平家でそれぞれ続いており、あくまで徳川将軍家の中で断絶となったのに注意を要する。
^ この時点では第3代将軍・徳川家光の男系子孫は残っており、家継の叔父にあたる松平清武とその子(家継から見れば従兄)清方が享保9年(1724年)に死去して断絶した。女系子孫では家光の唯一の娘千代姫の血筋が現在まで存続している。
出典^ a b c d e f g h i j k l 続群書類従完成会 1970, p. 56.
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