徳川家康
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信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは小牧・長久手の戦いで対峙するが[5]、後に秀吉に臣従し、小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる[5]

秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸幕府を開く。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。

没後は東照大権現の神号を贈られるなど神格化され、江戸時代を通じて崇拝された。
生涯岡崎城天守孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市)(2016年8月14日撮影)

※ 日付は、太陰暦による和暦西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。
生い立ち

天文11年(1542年)12月26日、岡崎城主松平広忠嫡男として岡崎城において生まれる[2][注釈 1]。生母は緒川城水野忠政の娘・大子(伝通院)[2]。幼名は竹千代(たけちよ)[2][12]。胞刀の役は酒井政家蟇目の役は石川清兼が務めた[13]

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国織田氏と同盟する。織田氏と敵対する駿河国今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる[注釈 2]
人質として今川家、そして織田家へ

天文16年(1547年)8月2日[16]、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない[17]。また、近年の研究[注釈 3]では、天文16年9月[注釈 4]に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している[26]

2年後に広忠が死去する[注釈 5]今川義元は織田信秀の庶長子織田信広[注釈 6]との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 7]に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代朝比奈泰能山田景隆など)により支配された[注釈 8][注釈 9][注釈 10][注釈 11]。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる[33][注釈 12][35]
元服・初陣

天文24年(1555年)3月、14歳のとき、駿府の今川義元の下で元服し、次郎三郎元信と名乗った[36]。義元の偏諱「元」の字を与えられており、これは改めて今川氏の配下になったことを意味した[36]

弘治3年(1557年)もしくは2年(1556年)、今川義元の姪とされる関口親永の娘(築山殿)を娶る[36][注釈 13]。これにより、今川一門に準じる立場となった[36]

弘治4年(1558年)頃に、祖父・松平清康の名の一字をとり、元康と改め[36]、仮名も蔵人佐と改めている[9][注釈 14]

なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠吉良義信、松平清康は吉良持清、松平広忠は吉良持広の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる[39]

当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河?劇)、永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた。これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた(寺部城の戦い)。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付[注釈 15]し、腰刀を贈った[41]。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条からなる定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた[42]
清洲同盟から三河国平定徳川家の家紋"丸に三つ葉葵(徳川葵)"

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。


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