徳川家康
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この先例とされたのは松平氏の祖とされる新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、藤原氏となったのは嫡男有氏とその弟教氏で、松平清康の世良田改姓とつなげたとの説がある[68][注釈 22]。この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った[70]。この改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」としているが、後に源氏に復している(#源氏への「復姓」時期について)。
今川領遠江への侵攻

永禄10年(1567年)5月、長男の竹千代と信長の娘である徳姫結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。竹千代は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る事になった。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 23]、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[71][注釈 24][注釈 26]

同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 27]

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎城から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした[注釈 28]。なお、岡崎城は長男の信康に譲った。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。
武田氏との戦い

家康は北条氏康・氏政父子と協調して武田領を攻撃していたが、武田信玄は氏康没後の元亀2年(1571年)末に北条氏政との甲相同盟を回復し駿河国を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景・浅井長政・石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した[注釈 29]。これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍はほぼ単独という形で武田軍と戦うこととなる。徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。

徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために内藤信成・本多忠勝らを偵察隊として遣わせるも武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。(三方ヶ原の戦い)武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してから家康は「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされているが、信憑性に疑問も呈されている。

その後家康は、三方原の失敗を戒めとするため、合戦直後の自身の姿を描かせ、それが徳川家康三方ケ原戦役画像であるとするのが通説とされてきた。


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