徳川家康
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永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている[51]。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 16]

折しも今川氏の盟友であった武田信玄北条氏康は、関東管領上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる[53]。また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある[50]。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[53]。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。

永禄4年(1561年)先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)(『史料総覧』巻10)[54][注釈 17]。同年4月西三河で今川氏との戦いが開始された。

永禄5年(1562年)には、元康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている[注釈 18][54]。一方、今川氏真の要請を受けた将軍・足利義輝は松平・今川両氏の和睦を図り、義輝から北条氏康らに対しても和睦の仲介を指示しているが、和睦は実現しなかった[58]

永禄6年(1563年)には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではない[59][注釈 19]。ほぼ同じ時期に今川義元に倣った花押の形を変更している。改名以前の花押が「元」の字を変形させたものである以上、花押の変更は当然のことであったとも言えるが、これも今川氏からの決別を示したことと言える[64]。こうした動きが桜井・大草の両松平家をはじめとする親今川派を刺激して、翌年の一斉蜂起につながったとする見方がある[65]。同年3月には、同盟の証として嫡男・竹千代(信康)と信長の娘・五徳との婚約が結ばれる。

永禄7年(1564年)、今川氏真が家康討伐の意向を示すと[注釈 20]、酒井忠尚や吉良義昭ら三河国内の反家康勢力の国衆が挙兵し、続いて三河一向一揆が勃発するも、これを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州?劇)の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した[注釈 21]。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。
「徳川」への改姓

永禄9年(1566年)、家康は朝廷から藤原氏として従五位下三河守叙任され、その直前、あるいは同時に苗字を「徳川」に改めている。

この改姓を朝廷に願い出る際にはいくらかの工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、当初は正親町天皇が清和源氏の世良田氏が三河守に任官した先例がないことを理由にこの叙任を認めなかった[69]。そこで家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した[70]

前久の対処により、吉田兼右万里小路家で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位三河守に叙任された(近衛家文書)[69]。この先例とされたのは松平氏の祖とされる新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、藤原氏となったのは嫡男有氏とその弟教氏で、松平清康の世良田改姓とつなげたとの説がある[69][注釈 22]。この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った[71]。この改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」としているが、後に源氏に復している(#源氏への「復姓」時期について)。
今川領遠江への侵攻

永禄10年(1567年)5月、長男の竹千代と信長の娘である徳姫結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。竹千代は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る事になった。

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 23]、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[72][注釈 24][注釈 26]

同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 27]

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎城から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした[注釈 28]。なお、岡崎城は長男の信康に譲った。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。


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