徳川家康
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鷹狩は、府中御殿に滞在しながら[注釈 56] お鷹の道で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名[190]青山忠成内藤清成の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)[191][192]

作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた[191]。「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。

猿楽(現在の名称は)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。駿府城三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。

囲碁本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる[185]。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。

将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される[193]

香道を好み薫物(たきもの)の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている[194]。なお有名な蘭奢待については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純大久保長安が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し[195]、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)[195]

新しいもの好き
関ケ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。

日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には徳川頼宣が奉納した防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱榊原康政皆川広照には南蛮胴を、黒田長政には南蛮兜を下賜し伝世している[注釈 57]

晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており[196]、時計が好きだったようだ。

遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存している。

芸事は好まない


今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い唖然とさせた。家臣が代わりに舞っている。

家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない[197]。家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押し[198]だが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。

ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。

家康が尊敬していた人物
ウィキソースに甲陽軍鑑の原文「家康家老本多百介と云剛の武士むすこを、未の九月もち候所に此子三ツ口なりとて家康山県と名を付候」があります。家康は、中国の人物として劉邦唐の太宗魏徴張良韓信太公望文王武王周公を尊敬している。着目すべきはすべて時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
書画
翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している[199]。ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。和漢の生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした[194]。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)[191][194]。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど[191]、見立に自信を持っていた。
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