徳川家康
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^ 近年、永禄4年の合意は松平・織田間の和睦の合意に過ぎず同盟の性格を持っていない[54]、実際の同盟締結は永禄10年5月の信康と徳姫の婚姻に伴って成立したとする柴裕之の説もある[55]
^ 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である[56]。会談自体の存在を疑問視する見解もある[54]
^ 経営史学者の菊地浩之は大子の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字徳川将軍家として重要になりその由来は隠された。また長家も家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したという説を唱えている[59]。日本史研究家の渡邊大門は「根拠不詳で説得力に欠ける」[60]、日本史家の平山優は「何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません」と述べている[61][62]
^ 永禄7年4月に今川氏真は「三州急用」すなわち家康討伐を理由に免税特権を無視した臨時徴収を実施し、更に武田信玄にも援軍を要請しているが、同年7月に北条氏康の要請で氏康の太田資正討伐に援軍を派遣した結果、家康討伐は先送りにされた。その結果、三河側では氏真による家康討伐に期待して反家康勢力が挙兵し、遠江側では臨時徴税をしながら家康討伐を起こさなかった氏真への不信感が高まったことによって遠州?劇が引き起こされたと指摘されている。しかし、前後して発生した2つの反乱は「今川氏真の来援を期待していた三河の反乱軍は氏真が遠江の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず家康に敗れる」「松平家康の来援を期待していた遠江の反乱軍は家康が三河の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず氏真に敗れる」という皮肉な形で終結することになった[65][66]
^ 正確には以前より織田領であった加茂・碧海両郡の西部地域はそのまま織田領となっている[67]
^ 引用元は『岡崎市史』。
^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄?細川政元期の赤松政則足利義稙?細川高国期の大内義興足利義晴?細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
^ ただし、家康が左京大夫任命そのものを辞退していないことは、公家側の日記に「徳川左京大夫(家康)」[72][73]という記述があることより確認できる。また、家康自身が延暦寺に充てて「左京大夫家康」と自書した文書[74]も現存しているため、朝廷や寺社に対しては三河守よりも格上とみなされている左京大夫を称した可能性もある[75]
^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[76]の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[77][注釈 25]
^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも一定程度独立した立場であったと考えられている。ただし、元亀元年の4月頃までは双方の取次である榊原康政と土屋昌続の間で外交交渉が行われており、公式に手切が宣言されたのは、同年10月の上杉謙信との同盟締結時であったとみられている[78]
^ 『当代記』によれば、当初は見附に本拠地を移す予定で普請を行っていた(城之崎城がその跡という)が、織田信長の要望を受けて浜松に変更したという。信長からすれば、織田と徳川の本拠地が離れすぎてしまうことを望まなかったと推測される[79]
^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[80]
^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉することを警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、
朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。

長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。

万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。
を婚姻の条件にしたとされる。(1)と(3)は実際起こらなかったものの、(2)については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、(2)の条件に基づく判断であったと考えられ、(1)と(3)の条件も実在した可能性が高い[94]
^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[94][96]
^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである[要出典]。
^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nao pode alegrar.)」と書いている[102]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[103]
^ ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている[110]
^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては、川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[111]
^常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
^ 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという[116]
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