徳川家康
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^ 家臣の岩松八弥の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』は暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はなく、病死を否定する理由はないとする意見もある[20]
^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[27]。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった[28][29]
^ 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた随念院(松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている[30]
^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある[31]。さらに浅倉直美は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)[32]。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
^ なお、天文16年の政治的混乱の中で、広忠の存命中に竹千代へ家督を譲らされた可能性も指摘されている[34]が、現時点では結論が出せないとされている[25]
^ 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた[37]
^ 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曽祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる[38]
^ 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河?劇において反今川派に属していた[40]
^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物[51]の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
^ 近年、永禄4年の合意は松平・織田間の和睦の合意に過ぎず同盟の性格を持っていない[54]、実際の同盟締結は永禄10年5月の信康と徳姫の婚姻に伴って成立したとする柴裕之の説もある[55]
^ 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である[56]。会談自体の存在を疑問視する見解もある[54]
^ 経営史学者の菊地浩之は大子の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字徳川将軍家として重要になりその由来は隠された。また長家も家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したという説を唱えている[59]。日本史研究家の渡邊大門は「根拠不詳で説得力に欠ける」[60]、日本史家の平山優は「何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません」と述べている[61][62]
^ 永禄7年4月に今川氏真は「三州急用」すなわち家康討伐を理由に免税特権を無視した臨時徴収を実施し、更に武田信玄にも援軍を要請しているが、同年7月に北条氏康の要請で氏康の太田資正討伐に援軍を派遣した結果、家康討伐は先送りにされた。その結果、三河側では氏真による家康討伐に期待して反家康勢力が挙兵し、遠江側では臨時徴税をしながら家康討伐を起こさなかった氏真への不信感が高まったことによって遠州?劇が引き起こされたと指摘されている。しかし、前後して発生した2つの反乱は「今川氏真の来援を期待していた三河の反乱軍は氏真が遠江の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず家康に敗れる」「松平家康の来援を期待していた遠江の反乱軍は家康が三河の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず氏真に敗れる」という皮肉な形で終結することになった[65][66]
^ 正確には以前より織田領であった加茂・碧海両郡の西部地域はそのまま織田領となっている[67]
^ 引用元は『岡崎市史』。
^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄?細川政元期の赤松政則足利義稙?細川高国期の大内義興足利義晴?細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
^ ただし、家康が左京大夫任命そのものを辞退していないことは、公家側の日記に「徳川左京大夫(家康)」[72][73]という記述があることより確認できる。また、家康自身が延暦寺に充てて「左京大夫家康」と自書した文書[74]も現存しているため、朝廷や寺社に対しては三河守よりも格上とみなされている左京大夫を称した可能性もある[75]
^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[76]の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[77][注釈 25]
^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも一定程度独立した立場であったと考えられている。ただし、元亀元年の4月頃までは双方の取次である榊原康政と土屋昌続の間で外交交渉が行われており、公式に手切が宣言されたのは、同年10月の上杉謙信との同盟締結時であったとみられている[78]
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