徳川家康
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^ 『当代記』によれば、当初は見附に本拠地を移す予定で普請を行っていた(城之崎城がその跡という)が、織田信長の要望を受けて浜松に変更したという。信長からすれば、織田と徳川の本拠地が離れすぎてしまうことを望まなかったと推測される[79]
^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[80]
^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉することを警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、
朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。

長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。

万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。
を婚姻の条件にしたとされる。(1)と(3)は実際起こらなかったものの、(2)については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、(2)の条件に基づく判断であったと考えられ、(1)と(3)の条件も実在した可能性が高い[94]
^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[94][96]
^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである[要出典]。
^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノ1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nao pode alegrar.)」と書いている[102]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[103]
^ ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている[110]
^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては、川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[111]
^常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
^ 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという[116]
^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[118]
^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
^ 関ヶ原の戦い後の戦後処理で家康の五男である武田信吉と娘婿である蒲生秀行の新しい所領が確定していなかった。このため、上杉氏・佐竹氏の処分との関連性が言われ、島津氏家臣鎌田政近が国元に充てた書状では、「武田信吉が直江兼続の娘を娶って上杉景勝の養嗣子となる」という風説を記している(『旧記雑録後編』)。しかし、武田信吉の病気もあってこの風説は実現されず、慶長6年8月の上杉氏の減封確定後に没収された旧上杉領の中から会津60万石が蒲生秀行に与えられた[129]。その後、減転封の処分を受けた佐竹氏の旧領が信吉に与えられることになる。
^ 徳川家康征夷大将軍補任の宣旨

内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)
内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る ? 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記

※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。
^ 当時のオランダは公式には共和制であった(ネーデルラント連邦共和国)。オランダが正式に王制となるのは19世紀初めのウィーン会議後である。
^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[139]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[140]
^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康のを「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[139]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である ⇒[1]
^ で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したものである[159]。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話
^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[162]
^ 『東武実録』では、久能での埋葬の段では「神柩」とし、日光への「改葬」の段では「霊柩」として、柩の呼称を区別している。
^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[165]
^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。


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