徳川家康
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注釈^ 徳川家譜でも松平記でも天文11年12月26日の生まれと記されているが、家康自身は慶長8年(1603年)に作成したまじないに使う願文に自らの年齢を『六十一歳癸卯歳』と記しており、生年を天文12年(癸卯)としている。徳川美術館学芸部部長代理を務めた原史彦はこのズレについて、家康が生まれたとされる天文11年12月26日は寅年、寅の日、寅の刻であり、誕生日すらも帝王になる資質を備えていたことを強調するため誕生日をわざと書き換えたと推測され、本来の生年は家康自身の言う通り天文12年であるとする説を唱えている。歴史学者の磯田道史も原の説に近い立場を取っており、勇敢にみせるイメージ戦略をとるため卯年ではなく寅年生まれであることにしたと推測する他、家康の幼名である竹千代は父・広忠が天文12年2月26日夜の連歌会で詠んだ句にちなんでおり、嫡男である家康が2カ月以上も命名されなかったのは不自然であるとして、家康本来の誕生日は天文12年2月26日からそう遠くない日であるとの可能性を指摘している[10]。その後、歴史学者の遠藤珠紀が家康の生年が卯年であるとする史料が全て陰陽道関係のものであることに注目し、陰陽道では実際の暦日に基づく暦月と異なって立春をもって正月とする節月(節切り)を採用しており、天文11年は12月21日に立春を迎えていることからそれ以降(12月26日)に生まれた家康は暦月では寅年・節月では卯年生まれとなるため、陰陽道に関する文書では卯年として扱われたとしている(遠藤は家康と同様の事例として南北朝時代の公家で暦応4年12月23日に生まれた広橋仲光の例を挙げている)[11]。遠藤説は、家康が天文11年12月26日生まれであるが故に発生した特殊な問題として捉えている。
^ 松平氏では天文12年(1543年)に長く松平広忠の名代(家督代行)を務めていた松平信孝(広忠の叔父)が広忠や重臣の阿部大蔵らによって追放されているが、広忠と大子の婚姻自体が水野氏と連携関係にあった信孝主導による縁組であり、信孝を排除した結果として水野氏との同盟関係が終了したと新説も出されている[14]。なお、当時の水野氏は複数の流れに分かれており、信元(緒川家)の水野氏が織田方についたことが明確になるのは織田信長が織田氏を継承して知多郡への支配の立て直しを意図した後であり、可能性の1つとして松平広忠の死後に今川氏が安祥松平家を断絶させずに竹千代(家康)を後継者とする方針を決めたことに対する反発が信元離反の一因になったとする指摘もある[15]
^ この説では、松平広忠が叔父・信孝、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝および牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする[18]。また、重臣の酒井忠尚も信孝陣営にあったとされる[19]。なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については村岡幹生の「織田信秀岡崎攻落考証」[20]をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる平野明夫[21]や糟谷幸裕[22]らとの議論がある[23]。その後、村岡も説を修正し、両者の連携を認めた上で岡崎城の陥落に前後して連携が破綻してしまったことが、今川義元の行動を不可解にしている(松平広忠との和睦と今川方への帰参誘引)と推測している[24]
^ なお、当時の情報伝達の状況から、実際の松平広忠の織田氏への降伏と人質の差出が8月であった可能性も指摘されている[25]ため、時期的には竹千代が人質に出されたと伝えられる時期と被ることになる。
^ 家臣の岩松八弥の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』は暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はなく、病死を否定する理由はないとする意見もある[20]
^ 前年の天文18年(1549年)、安祥城太原雪斎に攻められ生け捕りにされていた。
^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成』では宮カ崎とされている。
^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[27]。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった[28][29]
^ 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた随念院(松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている[30]
^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
^ なお、この駿府人質時代に北条氏規も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある[31]。さらに浅倉直美は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)[32]。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
^ なお、天文16年の政治的混乱の中で、広忠の存命中に竹千代へ家督を譲らされた可能性も指摘されている[34]が、現時点では結論が出せないとされている[25]
^ 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた[37]
^ 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曽祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる[38]
^ 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河?劇において反今川派に属していた[40]
^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物[51]の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
^ 近年、永禄4年の合意は松平・織田間の和睦の合意に過ぎず同盟の性格を持っていない[54]、実際の同盟締結は永禄10年5月の信康と徳姫の婚姻に伴って成立したとする柴裕之の説もある[55]
^ 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である[56]。会談自体の存在を疑問視する見解もある[54]
^ 経営史学者の菊地浩之は大子の再婚相手である久松俊勝が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱を用いたが、家光以後に「家」の通字徳川将軍家として重要になりその由来は隠された。また長家も家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したという説を唱えている[59]。日本史研究家の渡邊大門は「根拠不詳で説得力に欠ける」[60]、日本史家の平山優は「何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。
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