徳川家康_(1965年の映画)
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当時の各社人気のバロメーターといわれた映画会社のカレンダーに、東映は1965年度版に女優では佐久間と三田だけ単独での起用を決めると先輩の佐久間がクレームを付け、佐久間が正月、三田を九月に変更し、佐久間が矛を収めた[21]。三田の抬頭は佐久間を緊張させた[22]。東映は三田の将来性を大いに買って、一気に売り出そうと『赤いダイヤ』『仇討』の後、オールスター正月大作に起用を予定していた[21]。三田はこの頃から東映にとどまる限り、佐久間を越えるのは不可能と東映退社を考え始めたといわれる[22]
撮影記録

1964年11月10日クランクアップ[23]
評価と影響
東映時代劇の終焉

岡田茂は、早くから時代劇中心の東映京都を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた[15][24][25][26][27]。当時の東映京都は、第二東映の失敗で余剰人員が膨らんでいた[24][28][29][30]。1964年1月に東映京都所長に復帰するや、赴任早々「時代劇は一切止める」と宣言し大騒動になった[27][31]。時代劇を切り捨て、任侠映画主体に切り換えるには大変な出血を必要としたが[12][27][32] 、岡田は断々乎とこれを実行した[12] [15][26][33][34]。岡田は任侠路線を敷く布石を置きながら[12][26]、時代劇の復活にも努力したが[28][35]、作品の評価とは関係なく、興行的には凡打が続き[12]、本作『徳川家康』も亦所期の数字にまで達するに至らず[12][35]、時代劇の打ち切りを決断した[26][35]。本作と『飢餓海峡』、1965年4月10日公開の『冷飯とおさんとちゃん』と[36]、1965年度大作が相次いで不入りに終わり[36]、岡田は時代劇からの撤退を宣言[37][38][39]。1965年に予定されていた時代劇は大半を製作中止にし[36][37][38][39]、この煽りで本作も1本で打ち切りとなった。東映の財産である時代劇はテレビに徐々に移して行き[40]、テレビ時代劇を映画と並ぶ事業の柱とする素地を作り[40][41]、映画ではテレビでは出来ない不良性感度を推進し[30][32][40][41]アンビヴァレンツな方向性を明確に打ち出していく[30][40]。岡田が東映京都に復帰する前年1963年には、東映京都は全て時代劇を54本も製作したが[42]、1964年は時代劇27本[42]、1965年の時代劇製作は14本に減らし[42]、1966年正月映画には東映創立以来初めて時代劇を外した[12]。合理化の荒治療が一応の目途がついたのは1965年暮れで[31]、正統的な時代劇製作は1966年からは目立って減り[42]、1967年が3本[42]、1968年は0になった[42]


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