家系は三河国の国人土豪・松平氏の内、安祥松平家5代当主。幼名は竹千代[5]。幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごし[5]、諱は元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改め、通称は当初次郎三郎、元康に改名した際に蔵人佐を用いている[9]。
当初は今川氏の配下として活動するが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを機に今川氏から独立して家康に改諱し、織田信長に接近して清洲同盟を結ぶ[5]。永禄9年12月29日(1567年2月18日)には徳川氏に改姓した。本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げていく。天正10年(1582年)には本能寺の変での信長死亡後に発生した天正壬午の乱も制して甲斐国・信濃国を手中に収め[5]、5か国を領有する大大名となった。
信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは小牧・長久手の戦いで対峙するが[5]、後に秀吉に臣従し、小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる[5]。
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。
没後は東照大権現の神号を贈られるなど神格化され、江戸時代を通じて崇拝された。
生涯岡崎城天守孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市)(2016年8月14日撮影)
※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。 天文11年(1542年)12月26日、岡崎城主松平広忠の嫡男として岡崎城において生まれる[2][注釈 1]。生母は緒川城主水野忠政の娘・大子(伝通院)[2]。幼名は竹千代(たけちよ)[2][12]。胞刀の役は酒井政家、蟇目の役は石川清兼が務めた[13]。 3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国の織田氏と同盟する。織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる[注釈 2]。 天文16年(1547年)8月2日[16]、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない[17]。また、近年の研究[注釈 3]では、天文16年9月[注釈 4]に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している[26]。 2年後に広忠が死去する[注釈 5]。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広[注釈 6]との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 7]に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された[注釈 8][注釈 9][注釈 10][注釈 11]。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。 なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる[33][注釈 12][35]。 天文24年(1555年)3月、14歳のとき、駿府の今川義元の下で元服し、次郎三郎元信と名乗った[36]。義元の偏諱「元」の字を与えられており、これは改めて今川氏の配下になったことを意味した[36]。 弘治3年(1557年)もしくは2年(1556年)、今川義元の姪とされる関口親永の娘(築山殿)を娶る[36][注釈 13]。これにより、今川一門に準じる立場となった[36]。 弘治4年(1558年)頃に、祖父・松平清康の名の一字をとり、元康と改め[36]、仮名も蔵人佐と改めている[9][注釈 14]。
生い立ち
人質として今川家、そして織田家へ
元服・初陣
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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