徳川家康の影武者説
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彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大父親新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。天文11年12月26日1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。

母子のみでは養育する事が出来なくなった於大は、有度郡石田村の富士見馬場にある久松土佐の家に再嫁する。異父弟の三郎太郎康元が生まれると、於大の生母で祖母にあたる源応尼に国松の養育を頼んだという。その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとしている。しかし今川家の菩提寺で殺生禁断の地とされた増善寺山内で小鳥を捕らえたため、師から破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。村岡は、願人を妻帯肉食の修験者と説明している[3]

こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。

そして桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。

これら、「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。
「元信」の入れ替わり

村岡素一郎の主張では、元康は1560年(永禄3年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日、元康が阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたという。

これは家康の祖父松平清康が家臣の阿部正豊(弥七郎)に暗殺された、守山崩れと酷似している。村岡はこの守山崩れの伝承は、元康の死をカモフラージュするために清康の死として語られたのだと主張している。

そして元康の死を秘匿し、その身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信であるとする。当時の松平氏の三河は、信長と今川氏という両大名によって挟まれていた。信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や今川氏と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、信康が成長するまでは、替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させたというのである。

1562年(永禄5年)、元康に成りすました元信は、清洲城に出向いて信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。翌年、元信は松平家康と改名し、「二人の家康」から「一人の家康」となったという。
信康切腹事件

1579年(天正7年)に松平信康が切腹するという事件が起こる。この事件は信康とその生母・築山殿が信長の宿敵である武田勝頼と内通していたことが、信康の正室で信長の娘である徳姫によって露見し、激怒した信長が家康に信康と築山殿の処分を求めたという事件である。家康はこの条件を呑み、同年8月29日に築山殿、9月15日に信康を殺害したとされる。詳細は「松平信康」を参照

村岡は「すでに元信(家康)には結城秀康(於義丸)と徳川秀忠(長松・竹千代)という実子が生まれていた。父親の愛情としては、血のつながらない信康より、実の子に家督を継がせたいはずである。だから元信は、信長の処断要求が来るや、これを好機として二人を抹殺してしまった。」と主張している。また、清瀧寺にある信康の墓所が質素で、後に改葬もされていないとして、実子でない根拠としている。
石川数正出奔

1585年(天正13年)11月13日、家康に人質時代から近侍しており、岡崎城代であった石川数正豊臣秀吉のもとに出奔した。

これについて村岡は「数正と信康の関係は親しかった。史実では、数正は信康の後見人として岡崎衆を率いてその補佐を務めていたからである。そのため、1579年(天正7年)の信康自害に誰よりも悲しんだのは、この数正のはずである。私の説に従うなら、数正も元康が暗殺されたとき、世良田元信が挿げ変わることは承認していたはずであるが、数正は信康が成長すれば、松平(徳川)氏の家督は信康が継ぐものと信じていたはずである。であるから、信康が信長の処断要求に乗じた家康の命令で処断されたことに、数正は強い憤激を覚えていたはずである。だから、数正は秀吉を新たな主君に求めて出奔した。」と主張している。

家康の関東移封後、数正は信濃で10万石の大名となった。数正の死後は子である石川康長石川康勝が遺領を継いだ。しかし1613年(慶長18年)に両者とも改易されている。これを村岡は「家康こと元信の亡き数正に対する意趣返しではないのであろうか」と推定している。

而して、石川家は改易されたが、浅間温泉の湯守として松本に残ることを許されて、その血は現代まで残っている。
その他の村岡の論拠

三河松平氏の祖先である
親氏の墓所は三河に無く、武蔵国府中称名寺に存在する。

反響

村岡素一郎の本の定価は25銭で、初版500部が出版されたが、重版されず絶版となった。

絶版となった理由は、その著書の内容に憤激した徳川氏一族や旧徳川氏の幕臣が、民友社に圧力をかけたためという説(また村岡説の流布の妨害のために彼らによる買い占めが行われたとする説がある[注釈 5])や、徳富蘇峰が貴族院議員就任を目指しており、貴族院に多数存在する徳川家関係者に遠慮したためとも言われる。また、礫川全次はこの本は歴史書の体裁をとった明治の元勲山縣有朋伊藤博文への批判書だとしており、両者の圧力があった可能性を指摘している。いずれにせよ、村岡説は学会や世間に反響を起こすこともなく、戦前は完全に忘れられた存在であった。
戦後の『史疑』再発見

村岡素一郎の説は1960年代の徳川家康ブームの中で、異色の家康論として再検討の対象となった[5]

歴史小説家の榊山潤は、『特集人物往来』1956年5月号にエッセイ「妻を殺した徳川家康の秘密」を発表し、『史疑』の内容を紹介した[6]

歴史小説家の南條範夫は、『史疑』を古書店で偶然に入手したことがきっかけとなってこの説に興味を抱き、『オール讀物』1958年12月号に、村岡説を下敷きにした短編小説「願人坊主家康」を発表、さらに1962年には、村岡素一郎をモデルにした長編小説『三百年のベール』(文藝春秋新社)を刊行した[7]。同時期に小説家の加賀淳子も、徳川家康の替玉を扱った短編小説「消えた矢惣次」(短編集『有情無情』桃源社、1959年、所収)を発表している[7]

小説家で村岡素一郎の外孫にあたる榛葉英治は、『週刊文春』1963年4月15日号にエッセイ「家康をニセ者と断定した男」を寄稿し、さらに同年11月、『史疑』を現代語訳した『史疑 徳川家康』(雄山閣)を刊行した[8]

1965年には、『史疑』の全文が筑摩書房明治文学全集 77 明治史論集(一)』に収録され、初版以来63年ぶりに原文が公刊された[9]。編者の松島榮一は、『史疑』について「口碑・伝説と限られた史料とを使っての提言には、論証の不十分さが目立ってはいるが、いずれにせよ疑問を率直に表現することから、学問的考え方がすすむものである」と評している[5]

八切止夫は1970年に、『史疑』を下敷きにした長編小説『徳川家康は二人いた』(サンケイ新聞社出版局)を発表した[注釈 6]

1994年平成6年)には礫川全次が『史疑 幻の家康論』を著し、『史疑』の背景を検証した。


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