歴史学者の桑田忠親は著書『戦国史疑』において、「村岡説は小説の素材のようなものである。家康と世良田元信を別人とし、そして家康を北条早雲なみの流れ者と仮定している[注釈 7]。そのうえで、元康の存在から三河における松平(徳川)氏の過去の事蹟や系図を抹殺しすぎている。」として厳しく批判し、ほとんど論破したとしている。
影武者説の問題点
入れ替わりがあったということを裏付ける同時代史料は徳川家関係はもとより、他家や一般の文書にも存在しない。
当時、人売りによって売買される奴隷の価格は二十銭から三十銭[13]とされており、身分もわからない子供の値段として五貫文は高額すぎる。また、『駿府政事録』の記事にある金額を五貫文としているのは村岡素一郎の引用のみであり、現在発見されている『駿府政事録』の諸本では五百貫文とされている。[14]
親氏の墓は三河にもあり、松平郷の高月院に存在する。称名寺で発見された親氏の墓碑は、江戸時代後期の1801年(享和元年)に発見されたもので、江戸時代に制作されたものと見られている。
源応尼(華陽院)は竹千代が人質に出される前から駿府にいたため、織田方の於大の方の子を密かに受け取れる環境にない。
元信が浜松城を乗っ取ったとされる当時、浜松城は曳馬城と呼ばれており、飯尾氏が支配していた。1568年(永禄11年)に家康に攻略されるまでは飯尾氏が守っており、乗っ取られたという事実は無く、それを証明する資料も存在しない。
信康の死にあたって、家康は二俣城の近くにあった浄土宗の庵所に信康の廟所、位牌堂、その他の諸堂を建立した。1581年(天正9年)、家康は信康を葬った庵所を訪れ、清瀧寺
影武者説には、村岡素一郎の説の他にも系統を異にする諸説がある。
隆慶一郎は、村岡説に触発されたものの、「家康が入れ替わった時期が村岡説では早過ぎる。家康の人格が変化した1600年頃としたほうが無理がない」と考え、家康が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際に暗殺され、その後は影武者・世良田二郎三郎が代役として家康に成り代わったという設定で小説『影武者徳川家康』を著している。これは、いわゆる大御所政治の時に家康が駿府に政庁を開き、幕府と別に人材を集めて徳川秀忠の発給文書と別の二重文書を発行していたという史実から発想したものである。
また、家康は大坂夏の陣(岡山の戦い)で戦死し、その後の1年間は影武者であったとする説もある。この説によると、真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は、自害すると叫んで部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中に後藤基次が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれてそこで死亡したとするものである。堺市の南宗寺に「家康の墓」と称されるものがあり[注釈 9]、その説を裏付けるものとして語り継がれている[1]。南宗寺に徳川秀忠・家光が上洛した際に自ら参拝していることや、東照宮[注釈 10]が勧請されていたこともその傍証とされることがある[21]。家康の代役として小笠原秀政が選ばれ、その後、正史で家康が死んだ時期まで影武者として家康を名乗っていたと言われる[22]。