徳川家定
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生来病弱であったため、御台所及び2人の御簾中側室との間に子はなかった。また、継室たる御簾中一条秀子は、極めて矮小な体躯をしており、立っていても首が襖の引き手の下にあったという。一説に彼女は、片足が短いため跛行して歩いたと伝えられる。

自らの後継者候補となった慶喜とも不仲であった。家定に影響を及ぼした大奥の意向を反映したものと考えられているが、側小姓であった朝比奈閑水(後に外国総奉行町奉行勘定奉行を務める)の回想によると「単に自分より慶喜の方が美形であったから」という私怨に近いものであった。なお、慶喜は(生母・登美宮(貞芳院)が家慶の御台所楽宮(浄観院)の姉妹にあたるので)義理の従弟である[3]。また、家定自身は「まだ若く世子誕生の見込みもある」と考えていたため、慶喜擁立論が自分を暗愚・病弱であることを前提にしたものだと捉えて反発していたとする指摘もある[4]

死因

その死は一橋派の諸大名処分の翌日であったため、
一橋派が奥医師・岡櫟仙院を使って家定を毒殺したのではないか、という噂が流布されたことがある。

家定の死因は、通説では持病の脚気が悪化したため[1]とも、その頃流行していたコレラによるものとも言われている。

家定の死の直前、大老・井伊直弼と実母・本寿院との判断で、漢方医の青木春岱・遠田澄庵蘭方医伊東玄朴戸塚静海が江戸城登城を許され家定を診察した。以降、幕府内部にも西洋医学が導入されることになる。

系譜

御簾中:
鷹司任子(天親院) - 鷹司政通養女、鷹司政煕

御簾中:一条秀子(澄心院) - 一条忠良

御台所:近衛敬子(天璋院) - 近衛忠煕養女、島津忠剛

側室:豊倹院 - 堀利邦

養子:徳川家茂

徳川家定の系譜

                 

 16. 徳川宗尹
 
     

 8. 徳川治済 
 
        

 17. 於由加
 
     

 4. 徳川家斉 
 
           

 18. 岩本正利
 
     

 9. 岩本富子 
 
        

 19. 梅田養女
 
     

 2. 徳川家慶 
 
              

 20. 押田勝輝
 
     

 10. 押田敏勝 
 
        

 21. 金田正利娘
 
     

 5. 押田照子 
 
           

 22. 天野久豊
 
     

 11. 押田勝久養女 
 
        





 1. 江戸幕府13代将軍
徳川家定 
 
                 

 24. 跡部正泰
 
     

 12. 跡部正辰 
 
        





 6. 跡部正賢 
 
           

 26. 横田栄松
 
     

 13. 横田栄松娘 
 
        





 3. 跡部堅子 
 
              































官歴

※日付=旧暦

文政11年(1828年)4月4日 - 元服。家祥を名乗り、従二位権大納言に叙任。同日、さらに正二位に昇叙。

天保8年(1837年)9月2日 - 従一位に昇叙し、右近衛大将を兼ねる。

嘉永6年(1853年

10月23日 - 内大臣に昇進。右近衛大将元の如し。征夷大将軍源氏長者宣下。

11月23日 - 家定と名を改める。


安政5年(1858年)7月6日 - 死去。

9月8日、贈正一位太政大臣


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