徳川家光
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寛永11年(1634年)に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った[2]

ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸が滅亡して満州族が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した[注 2]

慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48・満46歳没。

家光の死に際しては、堀田正盛阿部重次内田正信らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
官歴

※日付=旧暦

元和6年(1620年)1月5日、正三位に叙す。9月7日、従二位に昇叙し、権大納言に任官。元服し、家光と名乗る。

元和9年(1623年)3月5日、右近衛大将に任官し右馬寮御監を兼任。

同年7月27日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。併せて征夷大将軍源氏長者宣下。

寛永3年(1626年)8月19日、従一位に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。

寛永11年(1634年)7月11日、太政大臣転任を固辞。

慶安4年(1651年)4月20日、薨去。

慶安4年5月3日、贈正一位太政大臣。

宮中への関与

第108代後水尾天皇中宮として、家光の同母妹である和子(東福門院)が入内した。家光は和子の息子(家光の甥)の高仁親王立太子および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、和子の娘である女一宮興子内親王が第109代明正天皇として即位した。このことにより徳川家は皇室の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。

また、摂関家九条道房鶴姫(実際には姪)を、一条教輔通姫を、それぞれ養女として嫁がせる等して朝廷内における権力の基盤も固めた。

なお二条康道と九条道房兄弟は、ともに母が家光の異父姉豊臣完子であるため、家光の甥にあたる。
政治体制

秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝酒井忠勝酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。

その後、六人衆から松平信綱阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。
人物徳川家光肖像(徳川記念財団蔵)

将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への御成などで外出することを好んだ。

武芸を好み、たびたび御前試合寛永御前試合や慶安御前試合など)や武芸上覧などを催している。特に剣術を好み、自身も柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けている。

家康や秀忠同様にを好んだが、風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であった。柳生宗矩にも、秘曲として名高い難曲「関寺小町」を舞わせている。玄人の中では当時の代表的な役者である北七大夫を父同様に贔屓した[3]

二世権現

春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから3代将軍に就けると叱責した話が記されている
[4]。これらに加え、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父・秀忠よりも祖父・家康の恩を意識していたと考えられている。

寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている[注 3]

晩年、家光はたびたび家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその肖像を何度も描かせている。これらは「(家光)霊夢(の画)像」と総称され、現在16点程確認されている[5]

身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを著すものと見られている[6]

このように祖父家康を尊敬していた家光だが、父秀忠が祖父家康の寵臣である本多正純改易に処して出羽国横手へ流罪処分としたが、秀忠死後でも家光は処分をそのままにし、正純を赦免することはなかった。また秀忠が朱印船貿易を推進した家康とは異なり、朱印船貿易を縮小していく政策を推進していたが、家光も秀忠を踏襲して朱印船貿易を終了させた。

女性関係

家光は若い頃は男色家だった為に女性に興味を見せなかった。その行く先を懸念した家臣たちの計らいで、美女と対面する機会を増やされたことで女性にも興味を見せ、側室お振の方が長女千代姫を産んだのを皮切りに、幾人もの側室を寵愛した。
健康状態

『当代記』には出生時に10ヶ月に満たないが安産とあり、早産だった。

家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。医師たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している[7]

寛永5年(1628年)には瘧(マラリア)を発病し、その快復直後、6月に脚気を発病した。この後毎年春から秋にかけて脚気に頻繁に悩まされるようになる。死去する慶安4年(1651年)の1月には胸が圧迫されるとの症状を訴えており、脚気衝心とみられる[8]

慶安4年(1651年)4月19日、家光は献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている[9]
その他

『立斎旧聞記』によれば
立花宗茂について家光は、「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて頭巾(禿隠し)をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」と、他者ならば不敬扱いされるような特別扱いを許していたとされている。また、家光が能、狂言、茶席など宴を催した際や、上洛、大坂行き、日光社参など、何処に行っても宗茂を相伴し、『徳川実紀』にも「当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」とある。


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