徳川宗武
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吉宗が再興した弓術儀式である弓場始について、享保19年(1734年)2月28日には、田安家でも伝え興行することを言いつけられた[注釈 2]

年表

※日付=旧暦

正徳5年12月27日1716年1月21日)、 徳川吉宗の三男として生まれる。幼名・小次郎。母は、お古牟の方(本徳院)。

享保14年(1729年)9月27日、元服。宗武と名乗り、従三位左近衛権中将兼右衛門督に叙任。徳川の苗字を称する。

享保16年(1731年)1月27日、江戸城田安門内に屋敷および賄料3万俵を賜り、田安徳川家を創設する。これが、後の御三卿の始めである。

延享2年(1745年)11月2日、参議に補任。

延享3年(1746年)9月15日、賄料10万石を与えられる。

明和5年(1768年)5月15日、権中納言に転任。

明和8年(1771年)5月27日、出家。 6月4日、死去。享年57。法名:悠然院殿寛山圓休大居士。

(年月日不詳)、贈権大納言

家系三女:淑姫(円諦院)高伝寺所蔵

宗武は15人の子女に恵まれたが、長男から四男までの男子は全て夭折したため、五男の徳川治察が嫡男となる[2]

正室:近衛通子(宝蓮院殿) - 近衛家久

長女:誠姫(1741年 - 1759年) - 伊達重村婚約者

次女:裕姫(1743年 - 1743年)

長男:小次郎(1745年 - 1753年)

次男:銕之助(英菊)(1747年 - 1752年)

四女:仲姫(1751年 - 1779年) - 池田重寛正室

五男:徳川治察(1753年 - 1774年) - 田安徳川家2代

五女:節姫(1756年 - 1815年) - 毛利治親正室


側室:山村氏(香詮院)

三女:淑姫(1744年 - 1815年) - 鍋島重茂継室

三男:友菊(1747年 - 1753年)

六男:久松松平定国(1757年 - 1804年) - 伊予松山藩

七男:久松松平定信(1758年 - 1829年) - 陸奥白河藩

七女:種姫(1765年 - 1794年) - 徳川治宝正室

八女:定姫(1767年 - 1813年) - 越前松平治好正室


側室:毛利氏

四男:乙菊(1752年 - 1753年)


側室:林氏

六女:修姫(1756年 - 1820年) - 酒井忠徳正室


著作

『天降言』歌集

『歌体約言』歌論

『伊勢物語註』古典注釈書

『古事記詳説』古典注釈書

『小倉百書童蒙訓』古典注釈書

登場作品
テレビドラマ

八代将軍吉宗』(NHK大河ドラマ、演:広瀬斗史輝→嶋田伸亨→徳山秀典山下規介

大奥』(NHK総合ドラマ10、演:松風理咲)※男女逆転設定

大奥』(フジテレビ木曜劇場、演:陣内孝則

漫画

大奥』(よしながふみ)※男女逆転設定

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「右衛門督宗武卿、好古の志厚く、持広が家伝の書、一覧し給はん事をねぎ給ひしかど、 ゆるし給はず。其後またさらに懇望ありしかば、さらば持広が弟子にならるべしと仰下さる。宗武卿、則持広が門にいらる。その後はじめて御所より其書ども伝へさせ給ひしとなん。かく古道を重むじ給ふ御こころざし、いとあり難き御事にこそ。」[5]
^ 「先に設られし弓場初の式、田安の邸にても、永く伝え、興行せらるべきむね、右衛門督田安宗武卿に仰せつかはさる」[6]

出典^ 『田安宗武』 - コトバンク
^ a b c 高澤 2012, p. 2.
^ 高澤 2012, p. 1.
^ 高澤 2012, p. 4.
^ 成島(附録巻十二) 1904, p. 310.


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