徳川宗家
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なお、6代家宣は甲府徳川家の嫡男として元服時に家綱から偏諱を賜って「綱豊」を名乗っていたが、綱吉の養子となった時に通字を含む家宣に改名したものであり、14代家茂は、紀州家の嫡男として元服時に、時の12代将軍家慶から「慶」の字の偏諱を賜って「慶福」を名乗っていたが、13代家定の養嗣子となった後、14代将軍に就任した際に通字を含む家茂に改名したものである。

最後の将軍となった慶喜は、大政奉還後に将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎した。さらに慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から徳川家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された[注釈 2]
明治以降[ソースを編集]徳川家達(1920年代)

第16代当主となった家達は、新政府により駿河遠江伊豆に70万石を改めて与えられて駿府(現:静岡県静岡市葵区)に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩立藩した。1869年明治2年)に家達は華族に列せられ、廃藩置県を経て、1871年(明治4年)に東京へ再移住した。

1876年(明治9年)の秩禄処分で家禄に代えて支給された金禄公債の額は56万4429円であり、その額は10位だった(1位島津公爵家132万2845円、2位前田侯爵家119万4077円、3位毛利公爵家110万7755円、4位細川侯爵家78万280円、5位尾張徳川侯爵家73万8326円、6位紀州徳川侯爵家70万6110円、7位山内侯爵家66万8200円、8位浅野侯爵家63万5433円、9位鍋島侯爵家60万3598円に次ぐ)[5]

1884年(明治17年)の華族令施行とともに家達は公爵位を授けられた。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」となっており、武家では徳川宗家だけが偉功なくしても当然に公爵になれる立場だった[6]。また徳川宗家からの直接の分家華族に徳川厚男爵家がある。

その後、家達は、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)の30年にもわたって貴族院議長を務め[7]、嫡子である第17代当主の家正は、戦後に最後の貴族院議長を務めた。

徳川宗家の本邸は1877年(明治10年)から1943年(昭和18年)まで東京府東京市渋谷区千駄ヶ谷にあり、敷地面積は10万坪を超えた[8]。世間からは「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれていた[9]1943年(昭和18年)に東京府が錬成道場として利用するために敷地と邸宅を買収し「葵館」と名付けられた。その後、木造建築物は撤去、鉄筋コンクリートの洋館2棟は移築され、1956年(昭和31年)に東京体育館が建設されて現在に至っている[10]

2003年(平成15年)、第18代当主・恒孝は、宗家の貴重な遺産を管理するため、財団法人(現:公益財団法人)徳川記念財団を設立した。

恒孝は半世紀あまりに亘って当主の座にあったものの、高齢を理由に2023年令和5年)1月1日に家督を長男の家広に譲ることになった[11]

2023年1月1日、家広が家督を継承し、徳川宗家第19代当主となる。同年1月29日、代替わりの儀式として、増上寺で「継宗の儀」が行われた。
歴代当主と主な子[ソースを編集]

世数将軍出身主な子




家初代徳川家康安祥松平家
松平信康(長男(嫡男)。のちに切腹を命じられる)

結城秀康越前松平家

秀忠(2代将軍)

松平忠吉(無子。断絶)

松平忠輝(流罪。断絶)

徳川義直尾張家

徳川頼宣紀州家)- 光貞 - 吉宗(8代将軍)- - - - - - - 家茂(14代将軍)

徳川頼房水戸家)- - - - - - - - 慶喜(15代将軍)

2代徳川秀忠徳川氏
先代の三男
家光(3代将軍)

徳川忠長駿河家。駿河大納言。切腹して断絶)

徳川和子後水尾天皇中宮。東福門院)

保科正之会津松平家)- - - - - - - 恒孝(18代当主)

3代徳川家光将軍家
先代の長男
家綱(4代将軍)

徳川綱重甲府家)- 家宣(6代将軍)、松平清武越智松平家

綱吉(館林家、5代将軍)


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