徳川吉通
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正徳2年(1712年)、時の将軍徳川家宣は死の1か月ほど前にあたる9月27日、側近の新井白石を病床の枕元に呼び、後継について相談した[2]。「天下のことは私すべきではない。跡継ぎが無くはないが、幼い者を立てて世を騒がしくした例も多い。そこで余の跡は尾張の吉通殿に譲ってはどうか。ないしは鍋松(徳川家継)に継がせておき、尾張殿を西の丸に入れて後見とし、政治を任せるか。どちらがよいであろうか」

と言う家宣に対し、白石は「ご立派なご配慮ではございますが、どちらも必ずしも適切とは存じませぬ。お跡継ぎが二、三に分れたときの派閥の争いが世を騒がせました例は、不幸にも過去に繰返されて参りました。上様(家宣)のお世継ぎに鍋松君がおありなのに尾張様の名があがれば、心無く二た手に動きだす者もできて参りましょう。御三家をはじめ御一門の方々、譜代の御家来がかくお揃いのうえ、守り立てますれば、若君が御代を継がれまして何のご懸念がありましょうか」

と答えた。さらに家宣が「幼い者(家継)に万一のことがあれば」

と言うと、「そのために神君(徳川家康)は、御三家をお立てになりました」

と答え、将軍継嗣は家継に決定した[注釈 6]
官歴

※日付=旧暦

1693年元禄6年)4月 - 幼名を五郎太と改める。それまでは、吉郎を称する。

1695年(元禄8年)

8月25日 - 苗字を徳川と称する。それまでは、松平を称する。

12月4日 - 将軍徳川綱吉の名を一字賜り、吉通と名乗り、従四位下に叙し、右兵衛督に任官。


1699年(元禄12年)

7月11日 - 尾張国名古屋藩主となる。

8月13日 - 従三位に昇叙し、右近衛権中将に遷任する。


1701年(元禄14年)12月11日 - 参議に補任。

1704年宝永元年)11月28日 - 権中納言に転任。

1713年正徳3年)7月26日 - 薨去。享年25(満23歳没)。法名は、圓覺院殿賢譽知紹源立大居士。墓所は、名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。

家系

父:
徳川綱誠

母:お福、下総の方、本寿院(坂崎氏女、綱誠側室)

正室:輔姫(瑞祥院、九条輔実女)

長男:徳川五郎太(名古屋藩5代)


側室:さん(随縁院)

長女:三千君(千姫、九条幸教室)


側室:尾上(清水院、守崎氏)

次女:三姫(名古屋藩8代徳川宗勝室)


兄弟姉妹

徳川継友(名古屋藩6代)

松平義孝(美濃高須藩2代)

徳川宗春(名古屋藩7代)

光現院(加賀6代藩主前田吉徳室)


偏諱を与えた人物

吉通時代

松平通幸(通顕)(実弟、のちの徳川継友)

松平通温(実弟)

松平通春(実弟、のちの徳川宗春)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 五郎太は尾張徳川家嫡男を表す幼名。4歳になるまでに兄たちが全員夭折したため、十男の吉通が嫡男扱いとなった証である。
^徳川実紀』の記事による。この時、生島新五郎の実弟生島大吉が本寿院邸に女装して入るという事件があった。大吉は1年間入牢後、発狂して死亡している。兄新五郎のかかわった江島生島事件では新五郎が同様の罪に問われている。なお、江島生島事件に関しては、儒学者室鳩巣の著書『兼山麗澤秘策』中において事件の顛末に触れた記述の中に「不義密通」の文言が無かったため、この事件は「当時大奥で権勢を奮っていた月光院派を排除するための、天英院派の陰謀・でっち上げだった」とする説の根拠となっている。
^ 『鸚鵡籠中記』などには大酒、大食など暗君ぶりも伝えられているが、吉通側近の近松茂矩は、『圓覺院様御伝二十五箇条』の中で吉通の節制した生活を記し、暗君の説を明確に否定している。
^ 近松茂矩著『昔咄』『圓覺院様御伝十五箇条』の記事による。
^ 儒学者室鳩巣は著書『兼山麗澤秘策』に、7代将軍家継の後見人として徳川吉宗の最大のライバルであった吉通の突然の死に関し、「食後に血を吐き、苦しみながら死んだ。医者も全く手に負えなかったため、多くの者がその死を疑った」と記述している。
^ 新井白石の自叙伝『折りたく柴の記』に、このときの様子が記されている。

出典^ a b c d コトバンク「徳川吉通」
^ a b c d e f 竹内(1993)pp.144-146


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