将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した[3]。享年68[3](満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[8]。
徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」故右大臣正二位源朝臣正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣奉 勅件人宜令贈任太政大臣者寛延四年後六月十日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉
(訓読文)故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)寛延4年(1751年)後(閏)6月10日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充、従五位上)奉(うけたまは)る
寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。
趣味・嗜好広南従四位白象
享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムから象を輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった[9][10]。
養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、関口柔心の流れを組む「新心流」の拳法(柔術)で体を鍛え、 鷹狩で運動不足を解消していた[11]。
松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた[11]。
狩野常信に師事し、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。
室町時代から伝統的に武家に好まれた宋・元時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧・牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に影響を与えた。
好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。
政策・信条
方針
吉宗は将軍就任後、新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。
一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐れみの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた犬追物、鷹狩の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。
江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山や隅田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。
倹約
肌着は木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた[12]。
吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。
経済
江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、上米の制、定免法、新田開発などの米政策を実行したことによって吉宗は「米将軍」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」または「八木将軍」とも呼ばれた。
吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。
商品作物や酪農などの新しい農業を推奨した。それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが和三盆である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。
御三家筆頭尾張家の徳川宗春は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した[注釈 8][注釈 9]。尾張藩家老竹腰正武らは宗春の失脚を企て、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった[注釈 10][注釈 11]。また、高尾太夫を落籍し、華美な遊興で知られた榊原政岑も処罰するなど[注釈 12]、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。
吉宗は将軍に就任するなり新井白石を罷免したが、白石が着手し、元禄・宝永金銀と混在流通の状態に陥っていた正徳金銀の通用については一段と強力な措置を講じた[15]。享保3年(1718年)には通用銀を宝永銀から正徳銀へ変更し、享保7年末(1723年)限りで元禄金銀・宝永銀を通用停止とした。しかし米価の下落から困窮していた武士や農民の救済のため金銀の品位を下げ流通量を増やすべきとする大岡忠相の強い進言に折れ政策を転換した[16][17]。元文元年(1736年)に行われた元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらした数少ない貨幣改鋳であるとして、積極的に評価されている[18]。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの寛政の改革、天保の改革などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。
保安
紀州藩の基幹産業の一つである捕鯨との関わりも深く、熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀伊熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網を設けていた。
将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、江戸湾へ流出した河川荷役、塵芥の回収に、鯨舟(古式捕鯨の和船)を使い、「鯨船鞘廻御用」という役職を設けて海上保安に努めた。