徳川吉宗
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

その上で、紀州藩士のうちから加納久通有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという[6]。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名旗本から好感を持って迎えられた。
享保の改革詳細は「享保の改革」を参照

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之老中に任命して財政再建を始める。定免法上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。
大御所

延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。

宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。

翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った[7][8]。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという[7]。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した[7]

将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した[3]享年68[3](満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[8]

徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」故右大臣正二位源朝臣正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣奉 勅件人宜令贈任太政大臣者寛延四年後六月十日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉

(訓読文)故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)寛延4年(1751年)後(閏)6月10日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充、従五位上)奉(うけたまは)る

寛永寺東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。
趣味・嗜好広南従四位白象

享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムからを輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった[9][10]

養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、関口柔心の流れを組む「新心流」の拳法柔術)で体を鍛え、 鷹狩で運動不足を解消していた[11]

松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた[11]

狩野常信に師事し、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。

室町時代から伝統的に武家に好まれた時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に影響を与えた。

好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。

政策・信条
方針

吉宗は将軍就任後、
新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。

一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐れみの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた犬追物鷹狩の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。

江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山隅田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。

倹約

肌着は
木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた[12]

吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。

経済

江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、
上米の制定免法新田開発などの米政策を実行したことによって吉宗は「米将軍」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」または「八木将軍」とも呼ばれた。

吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。


商品作物酪農などの新しい農業を推奨した。それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが和三盆である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef