徳川吉宗
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注釈^ 血液型は、徳川家綱と同じO型だったとされている[4]
^ 豊臣秀頼などもこの体裁を取っている。
^ 他に秀忠の男系子孫には保科正之に始まる会津松平家があり、秀忠の家系を伝えていた。だが保科家は御連枝や親藩ですらない譜代大名である。
^ 両者に関しては紀州藩による陰謀・暗殺とする説もある。
^ 吉宗が紀州藩主や将軍になるにあたり、次々と関係者が死去していることから、小説ドラマなど創作物では吉宗の暗殺とまでされている場合がある。
^ 徳川家宣の御台所天英院の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。
^ 御連枝としていまだ独立もしていないのに従四位下左近衛権少将に昇進している[5]。ただし、任じられたのはようやく21歳になってからのこと。弟の松平通温も部屋住みであったが正徳2年(1712年)には15歳で従四位下侍従兼安房守、同4年(1714年)には左近衛権少将に任官されている。継友が権少将に任官した正徳2年12月当時の藩主の吉通は24歳、五郎太は1歳であり、継友ら兄弟は、当主の吉通らが病没するなどの非常時のための後継候補要員として官位などが用意されていた、とも考えられる。さらに紀州藩の場合、部屋住みのまま頼職は15歳で従四位下左近衛権少将兼内蔵頭、頼久(のちの吉宗)も12歳で従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられている上に、気前のい綱吉とはいえ、翌年には兄弟に新規所領が与えられている。
^ 御三家筆頭の名古屋藩と、二番手である紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の継友)と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。
^ ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される[13]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
^ 1764年に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。
^ 吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている[14]
^ 前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。
^ 誇大に語られる御庭番だが、実態としては大目付目付を補う、小回りの利く将軍直属の監察官秘書官に近い。

出典^ a b 辻 1985, p. 1.
^ a b 小山 1995, p. 26.
^ a b c 辻 1985, p. 208.
^ 得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁
^ 『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実紀』より。
^ 福留真紀 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)
^ a b c 小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』
^ a b 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199
^ 『像志』(1729年)
^ 石坂昌三『象の旅長崎から江戸へ』(1992年)
^ a b 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)
^ 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)
^徳川実紀
^ 『尾公口授』江戸時代写本
^ 瀧澤・西脇『日本史小百科「貨幣」』270-271頁
^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』189-191頁
^ 河合敦『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』128-133頁

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