吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、綱吉の館林藩、家宣の甲府藩は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという[6]。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名や旗本から好感を持って迎えられた。
享保の改革詳細は「享保の改革」を参照
将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。
吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟の迅速化のため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。しかし、年貢を五公五民にする増税政策によって農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。 延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態ではなかったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。 宗武・宗尹は養子に出さず、部屋住みの形で江戸城内に屋敷を与え、田安家・一橋家(御両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。のち家重の嫡流は10代将軍家治で絶えるも、一橋家から11代将軍家斉が出るなどして、14代将軍家茂までは吉宗の血統が続くことになった。 翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った[7][8]。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという[7]。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した[7]。 将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した[3]。享年68[3](満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[8]。 徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」故右大臣正二位源朝臣正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣奉 勅件人宜令贈任太政大臣者寛延四年後六月十日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉 (訓読文)故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)寛延4年(1751年)後(閏)6月10日大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充
大御所
寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。
趣味・嗜好広南従四位白象
享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムから象を輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった[9][10]。